更新 2024年2月1日

 

カトリック小野幌教会のご案内

松村 繁彦 主任司祭 神父

協力司祭           ケン スレイマン 神父

協力司祭           森田 健児 神父

住所 004-0004  札幌市厚別区厚別東4条4丁目 5番2号

電話 011-898-2626

FAX 011-898-3190

 


 

※ 4月の復活の主日以後、小野幌教会は

東ブロックに所属し、

江別・大麻・小野幌・新田・岩見沢・北広島・月寒・北1条・真駒内 の

9つの共同宣教司牧チームで司祭がミサを致します。

東ブロック モデラトール 松村 繁彦 神父

      協力司祭   ケン・スレイマン 神父

      協力司祭   森田 健司 神父

      新田協力   久保寺 緑郎 神父

     岩見沢協力   宮部 登 神父

 

     上記3人で教会を回っていきます。

 

 

 

 

 

 

 

お説教

 

4月9日 復活の主日 お説教



먼저 구세주의 부활을 축하드립니다. 



그럼 오늘 구세주의 부활 미사, 일본에서의 마지막 미사의 강론을 시작하겠습니다. 



구세주의 부활의 최초의 증인은 다름아닌 여성들이었습니다. 


(오늘) 부활 성야 미사의 복음 말씀에서 들으셨듯이, 구세주의 부활을 가장 처음에 전한 사람들은 여성들이었다는 것입니다. 


당시 유대 사회는, 그리스, 로마 사회보다 훨씬 보수적인 사회였습니다. 유대인들은 여성들을 인간으로 취급하지 않았어요. 예를 들면 재판에서조차도 여성들은 증인으로 선택하지 않았습니다. 여성들의 증언은 믿을 수 없다는 이유로 말이죠. 그 정도로 당시 유대 사회에서 여성들은 굉장히 심하게 차별을 받았었습니다. 


그런데 복음서 저자들은 모두가 다 똑같이, 구세주의 십자가 아래에 있었던 사람들도 다 여성들이었고, 또, 구세주의 마지막을 지키기 위해 무덤으로 향해 가고 있었던 사람들도 여성들이었다고 전하고 있습니다. 


그 여성들에게 구세주의 부활의 소식이 가장 처음으로 소개되었던 것이죠. 그리고 그 여성들에 의해 남성 제자들이 구세주의 부활의 소식을 들을 수 있었던 것입니다. 부활 대축일 낮미사 복음을 들으면 바로 알 수 있습니다. 


그러므로 구세주의 부활의 최초의 증인들은 여성들이었다는 것입니다. 


이것은 복음서 저자들이 당시 유대 사회에서 가장 소외받았고 차별받았던 사람들에게 먼저 구세주의 복음이 즉, 부활 소식이 전해졌고, 공동체에서 가장 소외받았던 사람들에 의해 부활 소식이 즉, 복음 말씀이 선포되었다는 것입니다. 


이것은 하느님께서는 철저하게 그 시대의 사람들 중에 가장 소외받고 차별받고 무시당하고 왕따당하는 사람들을 우선적으로 배려하고 계신다는 것을 전하고 있는 것입니다. 


복음서 저자들이 이렇게 여성들을 구세주의 부활의 증인으로 소개하고 있는 것만 보더라도 우리는 복음서 저자들이 구세주의 부활을 포장할 생각이 전혀 없고, 오히려 있는 그대로 전하였다는 것을 알게 됩니다. 


그리고 부활 팔일 축제 기간 내에 읽게 되는 구세주의 부활에 관한 복음 말씀에 나오지만, 구세주의 제자들 이외에도 엠마오로 가고 있었던 제자들과 또 500여명의 제자들에게도 부활하신 구세주는 나타나셨다고 복음서는 전하고 있어요. 


그리고 구세주의 부활은 처음부터 사건으로 받아들이기 시작했고, 나아가 바로 신앙 고백으로 받아들이기 시작했다는 것입니다. 즉, 어떤 신학적인 해석없이 구세주의 부활을 바로 신앙고백으로 믿기 시작했다는 것이예요. 


그리고 가장 중요한 증거인 제자들의 변화된 모습을 통해서 우리는 구세주의 부활이 실제로 일어났다는 사실을 알 수 있습니다. 


구세주께서 겟세마네 동산에서 잡히셨을 때 제자들은 어떻게 행동하였습니까? 다 도망가버렸어요. 그런 겁많은 제자들이 구세주의 부활을 목격한 이후로 어떻게 변화되었어요? 순교할 정도로 완전히 180도 바뀌었습니다. 이런 제자들의 행동을 보더라도 구세주의 죽음 이후에 제자들의 행동이 완전히 180도 변할 만큼 무언가 획기적인 구세주의 사건이 있었다는 것입니다. 


그 획기적인 구세주의 사건이 다름아닌 구세주의 부활 사건이라는 것입니다. 


우리는 (오늘) 부활 성야 미사의 복음 말씀과 (내일) 부활 대축일 낮미사 복음 말씀에서 두 가지를 배울 수 있다고 생각합니다. 


하나는, 우리 공동체 중에 내 주변의 형제자매들 중에 혹시라도 내가 그를 왕따시키거나 무시하고 있는 것은 아닌지 반성해 볼 필요가 있습니다. 혹은 무관심한 태도를 지니고 있지는 않는지 반성해 보아야 한다고 생각합니다. 


그리고 또 하나는, 교회는 하느님께서 하셨던 것처럼 어제도 오늘도 내일도 공동체 안에서 소외된 사람들이 없도록 철저하게 서로 사랑하여야 한다는 것입니다. 


그 공동체는 비단 교회 공동체만이 아닐 것입니다. 


마지막으로 구세주의 부활을 목격한 제자들이 완전히 180도 성령의 사람으로 거듭난 것처럼, 우리도 구세주의 부활신앙을 믿고 있는 그리스도인이라면 어제와는 전혀 다른 삶을 살아야 할 것입니다. 


즉, 매일 구세주의 사람, 성령의 사람으로 변화되어야 하겠습니다. 왜냐하면 우리 신앙 자체가 구세주의 부활 신앙 그 자체이기 때문입니다. 


그렇기 때문에 우리의 삶의 구체적인 행동의 변화없이는 절대로 우리는 그리스도인이 될 수 없다고 저는 생각합니다. 


그러므로 매일 매일 변화하도록 합시다. 어제보다는 더 구세주의 사람다운 모습으로 살아가도록 노력합시다. 



이상입니다. 



그리고 마지막으로 지금까지 부족한 제 강론을 기꺼이 들어 주셔서 너무 감사드립니다. 오늘 이 미사가 제가 여러분과 함께 드리는 마지막 미사입니다. 그동안 너무 감사했습니다. 저는 이제 하느님의 나라가 아니라, 저의 나라로 돌아갑니다. 즉, 천국이 아니라, 한국으로 돌아갑니다. 


여러분이 늘 건강하시고, 부활하신 구세주의 은총 안에서 기쁜 하느님 나라의 삶을 매일 누리며 살아가도록 저도 기도하겠습니다. 


부활하신 구세주의 은총 안에서 기쁜 하느님 나라의 삶을 매일 누리며 사는 삶이란, 다름아닌 형제자매들끼리 서로 사랑하며 사는 삶입니다. 


기회가 되면 한국에도 놀러 오십시오. 여러분이 한국에 놀러 오시면 저는 잠시 채식주의자를 멈추고 기꺼이 여행 가이드로 여러분과 동행할 것입니다. 


다시 한번 말하지만 그동안 감사했습니다. 신세 많이 졌습니다. 안녕히 계십시오. 건강히 잘 지내세요. 훗날 여러분이 저보다 먼저 천국에 들어가시면 아직 천국에 가지 못한 저를 위해서도 기도해 주시지 않겠습니까? 그럼 잘 부탁 드립니다. 


아멘. 감사했습니다. 안녕히 계세요. 




まず救い主のご復活、おめでとうございます。 



それでは今日の救い主の復活のミサ、日本での最後のミサの説教を始めたいと思います。 



救い主の復活の最初の証人は他でもなく、女性たちでした。 



(今日)復活節の徹夜際のミサの福音のみことばでお聞きになったように、救い主の復活を一番最初に伝えた人々は女性たちだったということです。 



当時のユダヤの社会は、ギリシャ、ローマ社会よりもはるかに男尊女卑の社会でした。 ユダヤ人たちは女性たちを人間として扱っていませんでした。 たとえば、裁判でさえ、女性は証人として選択しませんでした。 女性の証言は信じられないという理由でですね。 そのくらい当時のユダヤの社会で女性たちは非常に激しく差別されていました。 



ところが福音書の著者たちはみんな、同じように、救い主の十字架の下にいた人々はみんな女性たちであり、また救い主の最後の臨終を守るためにお墓に向かっていた人々も女性たちだったと伝えています。 



その女性たちに救い主の復活のお知らせが一番最初に紹介されたのです。 そして、その女性たちによって男性弟子たちが救い主の復活の知らせを聞くことができたのです。 復活節の日中ミサの福音を聞けばすぐに分かります。



ですから、救い主の復活の最初の証人は女性たちだったということです。 



これは、福音書の著者たちが当時のユダヤの社会で一番疎外され差別を受けた人々にまず救い主の福音がつまり、復活のお知らせが伝えられ、共同体で一番疎外された人々によって復活のお知らせがつまり、福音のみことばが宣言されたということです。 



これは、神様は徹底的にその時代の人々の中で一番疎外され差別され無視されいじめられる人々を優先的に配慮しておられるということを伝えているのです。 



福音書の著者たちがこのように女性たちを救い主の復活の証人として紹介していることだけを見ても、私たちは福音書の著者たちが救い主の復活を包装するつもりは全くなく、むしろありのまま伝えたということが分かります。 



そして復活節八日のお祭りの間に読むことになる救い主の復活に関する福音のみことばに出てきますが、救い主の弟子たち以外にもエマオへ向かっていた弟子たちとまた500人ぐらいの弟子たちにも復活した救い主は現れたと福音書は伝えています。 



そして救い主の復活は最初から事件として受け入れ始め、ひいては信仰告白として受け入れ始めたということです。 つまり、神学的な解釈なしで救い主の復活を信仰告白として信じ始めたということです。



そして一番重要な証拠である弟子たちの変化した姿を通して、私たちは救い主の復活が実際に起きたという事実が分かります。 



救い主がゲッセマネの園で捕まったとき、弟子たちはどう行いましたか? みんな逃げてしまいましたね。 そんな臆病な弟子たちが救い主の復活を目撃して以来、どのように変化しましたか? 殉教するほど完全に180度変わりました。 このような弟子たちの行いを見ても、救い主の死後に弟子たちの行いが完全に180度変わるほど何か画期的な救い主の事件があったということです。 



その画期的な救い主の事件が他でもなく、救い主のご復活の事件だということです。



私たちは(今日)復活節徹夜際のミサの福音のみことばと(明日)復活節の日中ミサの福音のみことばから2つを学ぶことができると思います。 



一つは、私たちの共同体の中で、もし自分の周りの兄弟姉妹たちの中に、もしかして自分がある人をいじめたり無視しているのではないかと反省してみる必要があります。 あるいは無関心な態度を持っていないか反省してみるべきだと思います。 



そしてもう一つは、教会は神様がなさったように、昨日も今日も明日も共同体の中で疎外された人々がいないよう徹底的に配慮し愛し合わなければならないということです。 


その共同体は教会共同体だけではないでしょう。 



最後に、救い主の復活を目撃した弟子たちが完全に180度聖霊の者に生まれ変わったように、私たちも救い主の復活信仰を信じているキリスト者ならば昨日とは全然違う人生を生きなければならないのです。 



つまり、毎日救い主の者、聖霊の者に変化しなければなりません。 なぜなら、私たちの信仰そのものが救い主の復活信仰そのものだからです。 


そのため、私たちの人生の具体的な行いの変化なしでは絶対に私たちはキリスト者になれないと私は思います。



ですから、毎日変化するように頑張りましょう。 昨日よりはもっと救い主の者らしい姿で生きていくように頑張りましょう。 



以上です. 



そして最後に今まで足りない私の説教を喜んで聞いていただいて本当にありがとうございました。 今日のこのミサは、私が皆さんと一緒に捧げる最後のミサです。 今まで本当にありがとうございました。 私はもう神の国ではなく、私の国に帰ります。 つまり、天国ではなく、韓国に帰ります。 



皆さんがいつも元気で、復活された救い主の恵みの中で嬉しい神の国の人生を毎日受けながら生きていくように私も祈ります。 



復活された救い主の恵みの中で嬉しい神の国の人生とは、他でもなく、兄弟姉妹たち同士愛し合って生きる人生です。 



機会があれば韓国にも遊びに来てください。 皆さんが韓国に遊びに来たら、私はしばらくベジタリアンを止めて、喜んで旅行ガイドとして皆さんと同行します。 



もう一度言いますが、今までありがとうございました。 お世話になりました。 さよなら。お元気にお過ごしください。 後日、皆さんが私より先に天国に入ったら、まだ天国に行けなかった私のためにも祈っていただけませんか? では、よろしくお願いいたします. 


アーメン、ありがとうございました。 さよなら。





4月7日 聖金曜日 主の受難 お説教

 

 

救い主は十字架にかけられ亡くなりました。 

 

それも一番残酷な方法で亡くなりました。

 

敢えて今現在に比べると、一番悪い犯罪者が受ける刑罰を受けたと言っても過言ではありません。 

 

例えば、殺人を犯した罪人、性犯罪を犯した罪人、国のお金を横領した罪人など、まあ、このような罪人たちが受けるような刑罰を受けたと言っても過言ではありません。 

 

でも、それよりもっと残酷な処刑の方法で亡くなりました。 

 

十字架に釘付けになって。 皆さん自分で自分の手と足に大きな釘を刺すと考えてみてください。 皆さんは本当に耐えられますか。

 

私たちは小さなとげ一つに刺されてもとても耐えられません。 ところが、救い主は大きな釘で救い主ご自分の手と足に釘が刺さって亡くなりました。 

 

さらに非常に殴られて全身に血まみれになった状態で、頭にはとげのある冠をかぶったまま、自分の体よりよっぽど大きくて重い木を背負って丘へ自分で登り、そこで釘に刺さって亡くなりました。

 

なんで?何のために? 誰のために? 神の子はそのような残酷な処刑の方法で亡くなったのですか? 

 

まさにあなた、皆さんのせいで。 あなた、皆さんのために。 あなた、皆さんの罪が多すぎて命を得られないから、あなた、皆さんの罪をなくそうと思って。 

 

それであなた、皆さんと一緒に永遠に幸せな神の国で生かせてもらおうと思って救い主はそのように何の罪もない方が罪人たちであるあなた、私たちのためにそんな残酷な処刑のやり方で亡くなったのです。 

 

そしてその一度で終わらず、今現在の私たちの世代、そして次の未来の世代まで救い主は過去には血を流して亡くなりましたが、今現在では血を流さないやり方でつまり、ご聖体秘跡という形で毎回私たちのために犠牲になるということです。 

 

昨日の福音のみことば、皆さん覚えていますか? 

 

救い主が洗足式を通して教えてくださったこと、何かご存知ですよね? 

 

キリストに従うという兄弟姉妹の信者同士どう過ごさなければならないのか教えてくださいました。

 

つまり、お互いに自分のご主人だと思って仕えながら生きていけと。 そしてお互いの過ちを、ミスを赦して生きていけという意味で救い主がご自分で弟子たちの足を洗ってくださることで教えてくださったということです。 

 

ですから、こんなにまで血を流して亡くなり、また今現在も毎回私たちのために祭壇の上で犠牲になる救い主の犠牲を決して無駄に思わないでください。 

 

そしてお互いに悪口を言わないでください。 陰口を言わないでください。 お互いに非難しないでください。 陰口をきかないだけで私たちは聖人聖女たちになれるというフランシスコ教皇様のお言葉を忘れないように頑張りましょう。 そして相手を尊重してください。 自分より年下だと、経験がないと無視しないでください。 お願いいたします。 

 

稲は熟すればするほど自分の頭を下げるものです。 

 

以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

4月6日 聖木曜日 主の晩餐の夕べ

 

今日の福音のみことばは単刀直入に言えば洗足式です。 

 

ところで、注目に値するのは、ヨハネによる福音書には、最後の晩さんに関する内容は出てこないということです。 最後の晩さんの代わりに洗足式がこのように記録されています。 

 

この意味は何でしょうか。

 

ヨハネによる福音書の著者は一言で要約して言えば、洗足式は主の晩さんと決して「違わない」、すなわち「同じだ」ということです。 

 

これが今日の私たちに伝えるメッセージの意味は何でしょうか。

 

私はこう思います。 

 

私たちは主の晩さんをミサと言います。 それでは、ミサはただ主の晩さんという意味だけでしょうか。

 

ミサはラテン語で「派遣する」という意味です。 

 

ですから、ミサにきちんと与るというのは、主の晩さんだけじゃなく、主の晩さんが終わってからもずっと続くべきだということです。

 

では、どうすれば主の晩さんを日常生活の中でも続けて行うことができるでしょうか。 

 

それに対する正解を今日の福音のみことばでイエス様がご自分で見せてくださいました。 

 

まさにお互いの足を洗ってあげなければならないということです。 

 

お互いの足を洗ってくれるというのは、愛し合うということではなく、何でしょうか。 

 

主イエス·キリストはお互いに愛し合えという教えをこのようにご自分で行いで見せながら教えてくださいました。 

 

ですから、ミサにきちんと与るというのは、ご聖体秘跡の後に教会の扉を出て初めて本格的にミサが始まるということです。 

 

つまり、私たちの行いでですね。 どんな行いで? お互いに仕え、愛し、赦す行いでミサは初めて完成するということです。 

 

単純にここの聖堂で行われるミサが全部ではないということです。 ミサは私たちの日常生活まで続くということです。

 

だから、ヨハネによる福音書の著者が伝える主の晩さんとは、まさに洗足式であり、この洗足式はイエス様から始まりイエス様に従うすべてのキリスト者たちによって毎日行われなければならないということです。 

 

したがって、主の晩さんであるミサを毎日あるいは毎週たびに与るキリスト者たちは、救い主が見せてくださった洗足式の精神で毎日自分たちの日常生活で生きなければならないということです。 

 

どうやってですか。お互いに仕え、お互いに赦し合い、愛し合ってね。 

 

もうお分かりでしょうか。 ですから、単純に主日ミサにだけ与ったからといって、キリスト者としてすべきことを全部したと言わないでください。 

 

ミサは毎日今日の福音のみことばでイエス様が見せてくださった通りに毎日行わなければならないということです。 誰が?まさに皆さんが。

 

私たち一人一人はみんな、私たちの日常生活の中での毎日ミサを洗足式の形で行うミサの司式者ということを忘れてはいけません。 

 

ご聖体秘跡が行われる間に主イエスキリストが本当に生きておられるように、洗足式を行った主イエスキリストのように自分の兄弟姉妹たちにお互いに仕え愛する人生の中でも同じように主イエスキリストが本当に生きておられるということを忘れないでほしいです。 

 

救い主の十字架の死の事件は、まさに主の晩さんであるご聖体秘跡と洗足式の形で救い主がご自分で見せてくださった仕えと愛の姿で、もう一度私たちの中に再現されるように一生懸命頑張りましょう。 

 

ここの祭壇に立っている司祭は、主の晩さんであるご聖体秘跡の司式者ですが、皆さんは救い主が直接見せてくださった洗足式の形という仕えと愛と赦しの司式者だという事実を常に肝に銘じなければなりません。 

 

以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

 

4月2日 受難の主日(枝の主日) お説教

 

 

神様に捧げるまことの礼拝が何かを教えてくださった救い主が、実際にあなたご自分が直接その礼拝を父である神様に捧げました。 

 

神様に捧げるまことの礼拝が何なのかご存知ですよね? 覚えていますよね? 

 

神の御心を行うことがまさに神様に捧げるまことの礼拝だと、私たちは先週まで主日のたびに聞いて学びました。 

 

さて、神の子、救い主がご自分で手本を見せてくださいました。 その方は父である神の御心を行いました。 ただ行われたのではなく、真心を込めて行いました。

 

弟子たちの裏切り、人々のあらゆるごまかし、冷やかし、殴打などを受けながら全身で耐え忍ばれました。 

 

ひたすら父である神の御心を行わなければならないというその信念で。 

 

このように救い主が心を尽くして力を尽くして精神を尽くして霊を尽くして礼拝をしたことがまさに私たちが知っている十字架の犠牲祭祀なのです。

 

それでですね、救い主がご自分で犠牲になった十字架の犠牲祭祀だけが神様に捧げるまことの礼拝なのです。 

 

なぜなら、一人しかいない大切な人を滅びさせないように悪から救ってくださった地上の最大の歴史的な事件だからです。 

 

さらに、神の子がご自分で被造物である人のために犠牲になったからです。 

 

そして、その歴史的な犠牲の祭祀は過去にだけ有効だったのではなく、今現在も引き続き司祭の手と口を通してご聖体秘跡というこの歴史的な現場の瞬間に毎回再び繰り返し再現されているのです。 

 

ですから、今与っているこのミサを皆さんは絶対に虚しく思わないでほしいです。 

 

たとえ私たちの目には丸くて白いパンしか見えませんが、実際に救い主の受難して亡くなったその肉そのものそのまま再現されているので、決して虚しく思わないでください。

 

ご聖体秘跡をプロテスタント教会の信者たちはただ象徴だと言ったりしますが、絶対に象徴ではありません。ご聖体秘跡はイエス·キリストがもう一度私たちのために犠牲の供え物になった歴史的な十字架の犠牲祭祀なのです。 

 

だから、プロテスタント教会の信者たちが私たちのご聖体秘跡をただ象徴で低くして呼ぶことに対して断固として「違う」と否定しなければなりません。 

 

そして、ご聖体秘跡のミサより信者たち同士祈る集会祭儀をできるだけ多くしないでほしいです。 司祭が足りなければ足りないままにできるだけミサをたくさん捧げてほしいと積極的に求めてください。 

 

十字架の犠牲祭祀であるミサより良い礼拝はなく、また神のみことばを実践するよりまことの礼拝はありません。 

 

勘違いしないでください。 今、私たちに一番必要なのは救い主イエス·キリストが私たちにもたらしてくださった十字架の犠牲祭祀とその方のみことばを実践することです。 

 

その方のみことばを実践するのは何でしょうか。まさに愛し合うこと、陰で根拠のない悪口を言わず、つまり、陰口を言わず、心から周りの人々を愛し合うのではなく、何でしょうか。

 

今日の救い主の受難福音のみことばを聞いたとすれば、もう残った宿題は私たちの実践だけです。 そうじゃないですか。 私の言葉が間違いましたか。間違えたら反論してみてください。 以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

4月1日 四旬節第5土曜日

 

第1朗読

 

エゼキエル預言

37・21主なる神はこう言われる。「わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。22わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。23彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。24わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。25彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。26わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。27わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。28わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

 

 

福音朗読

 

ヨハネによる福音

 

そのとき、11・45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。46しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。47そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。48このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」49彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。50一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」51これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。53この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

 

54それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

 

55さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。56彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」

 

 

お説教

 

今日の福音のみことばで祭司長たちとファリサイ派の人々はなぜ最高法院を召集しましたか。

 

表面的にはラザロの蘇生を見守った多くのユダヤ人たちがその事件によってほとんどイエス様に従ったためです。 

 

でも、その本音はユダヤ教の中でのイエスの運動が自分たちの権威に挑戦すると考えたためです。 

 

名分は「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言いましたが、すでにユダヤはローマの植民地でした。 

 

それにもかかわらず、彼らがそう言ったのは、たとえユダヤはローマに土地を奪われたとしても、祭司長たちとファリサイ派、サトカイ派の人々は自分たちの権威と財産は相変わらず持っていました。 

 

ローマの植民地の政策は、その土地にすでにある宗教を認めることでした。 ローマに対する反抗がなければ、彼らは自分の宗教的な権威と富を維持することができました。 ところが、イエス様がイスラエルの民の人気を得ると、彼らは自分の権威と財産をイエス様によって奪われる恐れがあるということを心配したため、イエス様を殺そうとしたのです。 

 

イスラエルの宗教指導者たちは、自分たちの利益を満たすためにまことの牧者である救い主に気づかなかったのです。今日の福音のみことばの核心メッセージは、まさに大祭司のカイアファの発言にあります。 

 

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。 

 

これは、カイアファの個人的な目的はイエス様を殺さなければならないという考えだけでした。 でも、彼の考えと目的とは異なり、彼の言葉の中に神の計画が隠されていました。 

 

神の計画は「一人の人間が民の代わりに死んで全民族が滅びなくなること」です。 まさにこの業を成し遂げるためにイエス·キリストがこの地にいらっしゃったのです。

 

つまり、救い主が神の民の罪を担当して神の民の代わりに十字架につけられ亡くなったことで、彼らは永遠に死なずに救われるようになったのです。 

 

さらに、これはユダヤ人たちだけに限ったことではなく、世界中に散らばった神の子供たちに拡大されます。 異邦人だった私たちが永遠に滅びせずに救いに招待されることができたのは、救い主が十字架で死ぬまで私たちに向けた神の愛を見せてくださったためです。

 

皆さん、私たちは祭司長たちやファリサイ派の人々のように、自分の利益のために救い主が教えてくださった掟を無視する者ですか? それとも救い主の恵みを受けた者たちとして、自分それぞれの人生の中で自分がキリスト者だということを自分が会う人々に積極的に見せていますか? もしかしてキリスト者という自分の身分を隠してはいませんか。

 

私たちはラザロのように霊的に死んだ者たちでした。 もしかして今も死んではいないのかどうかわかりません。 でも、救い主が私たち一人一人の名前を呼んでくださったので、私たちは私たち一人一人の墓から出て神の栄光を見ることができるようになりました。 

 

このように、私たちは言葉では表現できないほど非常に多くの恵みを受けました。 さて、それではこれから私たちは今日からどうすればいいでしょうか。

 

隠れていないで伝えなければなりません。 家族の中にキリスト者として生きず、一般人のように同じように生きる家族がいるなら、悔い改めキリスト者として生きるよう皆さんが先に模範を示してください。 

 

自分が先に模範を見せながら家族や周りの知り合いにキリストが自分の中に生きておられるということを自分の行いとして見せてください。 それは救い主が直接教えてくださった掟通りに生きることだと私は思います。  

 

もしかしたら皆さんの普段の小さな言葉と行いのために皆さんの家族がキリストの福音に背を向けているのではないかと反省してみる必要があります。 

 

未信者である皆さんの周りの人たち、そして信者だけど、今は信仰生活をしていない皆さんの周りの人たちが皆さんの行いを見て感動を受けられるように一生懸命頑張ってみましょう。 

過去のイスラエルの宗教指導者たちのように、自分の利益だけのために生きる人にはならないように、自分をよく警戒し反省しながら生きていくように頑張ってみましょう。

 

以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

 

3月27日 月曜日

 

第一朗読

 

ダニエルの預言

 

1バビロンにヨアキムという男が住んでいた。2男は妻をめとった。ケルキアの娘で、名をスザンナといい、大層美しく、主を畏れるひとであった。3また、彼女の両親も正しい人で、自分たちの娘をモーセの律法に従って教育した。4夫ヨアキムは、大変裕福で、その家の隣に美しい庭園を持っていた。ヨアキムは、この上なく評判の良い人であったので、ユダヤ人たちはよく彼の所に集まった。5さて、その年、民の中から裁判官として二人の長老が選ばれた。「バビロンで、民を治めるはずの裁判官である長老から不法が始まった」と主が語られたのは、この二人についてである。6二人はいつもヨアキムの家に詰めており、裁きを求める人々は皆、彼らのもとにやって来た。7正午になり人々が立ち去ると、スザンナは、夫の庭園に入り散策するのが常であった。8二人の長老は、彼女が毎日庭に入り散策するのを見て、彼女に欲情を抱くようになった。9二人は理性を失い、天から目を背けて仰ぎ見ることもせず、正しい裁きに心を用いることもしなくなった。

 

15彼らが、折をうかがっていると、彼女がいつものように侍女二人だけを伴って庭に出て来たが、非常に暑い日であったので、水浴びをしようと思った。16そこには、隠れてのぞいている二人の長老のほかは、だれもいなかった。17スザンナは侍女に、「オリーブ油と香油を持って来なさい。水浴びをしますから庭園の戸は閉めておきなさい」と言った。

19侍女たちが出て行くと、二人の長老は立ち上がり、スザンナのもとに走り寄った。20彼らは言った。「ごらん。庭園の戸は閉じている。だれも見ていません。わたしたちは、あなたが欲しくてたまりません。言うことを聞いて身を任せなさい。21さもなければ、わたしたちは、『あなたが、若い男と一緒にいたので、侍女たちを下がらせたのだ』と証言します。」22そこで、スザンナは嘆息して言った。「わたしには逃げ道がありません。もし身を任せれば、わたしは死を免れません。もしそうしなければ、今度はあなたたちの罠にかかることになります。

23そんなことをして主の前に罪を犯すよりは、あなたたちの罠にかかる方がましです。」24こう言って、スザンナは大声で叫びたてた。すると二人の長老も彼女に負けじと叫びたて、25一人が走って行き、庭園の戸を開け放った。26庭園の叫び声を聞きつけて、家の者たちは彼女の身に何事が起きたのかと、わきの戸口から駆け込んで来た。27そこで、長老たちは自分らの作り話をしたが、召し使いたちは非常に恥ずかしい思いでこれを聞いた。そのようなことは、スザンナについて言われたことがなかったからである。28翌日、人々が彼女の夫ヨアキムの家に集まったとき、二人の長老らもやって来た。二人は、スザンナを死罪に定めようというよこしまな考えを抱いていたのである。人々を前にして彼らは言った。29「ケルキアの娘、ヨアキムの妻スザンナを呼んで来なさい。」人々は彼女を呼びにやった。30スザンナは、両親や子供たち、それに親族の者たち皆と一緒にやって来た。

 

33彼女の身内の者も、見ていた人たちも皆泣いた。34二人の長老は、人々の中央に立ち、彼女の頭に手を置いた。35彼女は泣きながら天を仰いだ。心から主を信頼していたからである。36長老は言った。「我々が庭園を歩いておりますと、この女が二人のはしためを伴って入って来て、庭園の戸を閉め、彼女らを下がらせました。37すると、隠れていた一人の若者が彼女に近づき、彼女と一緒に横たわりました。38我々は庭園の片隅にいたのですが、このよこしまな行為を見て、彼らの方に走って行きました。39我々は、二人が情を交わしているのを見ましたが、その男を取り押さえることはできませんでした。彼は我々より力が強く、戸を開けて逃げてしまったのです。40そこで、我々はこの女を捕らえて、あの若者がだれかと問いただしましたが、41答えようとしませんでした。我々は、この事実を証言します。」集まっていた人々は、二人が民の長老であり、裁判官であるゆえに、その言葉を信じ、彼女を死罪に定めた。42すると、スザンナは、大声で叫んだ。「ああ、永遠の神、隠されたことを知り、あらゆることをその起こる前から知っておられる方よ。43彼らがわたしについて偽証したことをあなたはご存じです。御覧ください。この人たちが悪意をもって作り上げたことをわたしは何一つしませんでした。それなのに死なねばなりません。」44主は彼女の声を聞かれた。45彼女が処刑のために引かれて行くとき、神はダニエルという若者の内にある、聖なる霊を呼び覚まされた。46彼は大声で、「わたしは、この婦人の血について責任はない」と叫んだ。47それで、人々は皆、ダニエルの方を向いて、「あなたが言ったことは、いったい、どういうことなのか」と言った。48ダニエルは人々の真ん中に立って言った。「イスラエルの子らよ、あなたがたは、それほど愚かなのですか。究明もせず、真実も知らずに、イスラエルの娘を断罪するのですか。49もう一度、裁きの場に戻りなさい。なぜならこの二人は彼女について偽証したからです。」50そこで、人々は皆、急いで戻った。ほかの長老たちはダニエルに言った。「こちらへ来て我々の真ん中に座りなさい。そしてわたしたちにはっきり言いなさい。神があなたに長老の特権を与えられたのだから。」51ダニエルは彼らに言った。「あの二人を遠く引き離してください。わたしが審問いたします。」52それで、二人が別々に引き離されると、ダニエルはそのうちの一人を呼んで言った。「悪の日々を重ねてきた老いぼれよ、今や、あなたが過去に犯した罪の報いがやってきた。53主が、『罪なき人、正しい人を殺してはならない』と言っておられるにもかかわらず、あなたは不正な裁きを行い、罪なき人を断罪し、責めある者を見逃した。54あなたが彼女を見たと言うのなら言っていただきましょう。二人が一緒にいたのはどんな木の下でしたか。」それで彼は、「乳香樹の下だ」と答えた。55ダニエルは言った。「まさしくあなたは致命的な偽証をしたのだ。今や、神の使いが、神の判決を受け取り、あなたを二つに裂く。」56次にダニエルは彼を去らせ、他の一人を連れて来るよう命じた。ダニエルは彼に言った。「カナンの末裔よ、あなたはユダ族の子孫である資格はない。あなたは美貌に目がくらみ、欲情に心を迷わせた。57あなたたちはいつもこのように、イスラエルの娘たちにしていたのだ。彼女らは恐ろしさのあまりあなたたちに身を任せた。しかし、ユダの娘の中に一人、あなたたちのよこしまなふるまいに、屈服しなかった者がいる。58さて、わたしに答えていただきましょう。二人が一緒のところをあなたが捕らえたのは、どんな木の下でしたか。」彼は、「かしわの木の下だ」と答えた。59ダニエルは言った。「まさしくあなたも致命的な偽証をした。神の使いが剣を持ち、あなたを真っ二つに切り裂こうと待ち構え、あなたたちを討ち滅ぼす。」60すると全会衆は大声で叫び、神を、すなわち御自分に望みを置く人々を救われる神を賛美した。61人々は二人の長老に対して立ち上がった。なぜなら、彼らが偽証人であったことをダニエルが彼ら自身の証言によって明らかにしたからである。人々は二人がその隣人を陥れようとしたのと同じことを彼らに対して行った。62すなわちモーセの律法に従って二人を死刑に処したのである。こうしてこの日、無実の人の血が流されずにすんだ。

 

 

ヨハネによる福音

そのとき、8・1イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 

 

今日の朗読と福音のみことばは強者が弱い者を自分たち勝手にむやみに扱う場面が紹介されました。 

 

今日の朗読のみことばで弱い者はスザンナ、福音のみことばでは姦通の現場で捕らえられた女、(ところで本当に彼女が姦通をしたかどうかわかりません)、とにかく何人かの男性たちによって連れてこられました。 

 

スザンナや今日の福音のみことばの女はみんな強者たちによって抑えられる無念な被害者として紹介されました。 

 

その悔しい状況で命まで危険な状況が近づいた時、スザンナはダニエルに会って自分の命を救うことができ、今日の福音のみことばからの姦通の現場で捕らえられた女も救い主に会って命を救うことができました。 

 

もちろん悔しい状況も正義に解決されました。 

 

今日の朗読と福音のみことばから私たちが得られる教えは、私たちの周りにもこのような状況はいくらでもあり得るということです。 

 

現代でもこのような状況がかなりたくさん発生していますよね? 強者が弱い者を踏みにじる状況です。 

 

特に飛び出した杭を打ち込むような状況です。 

 

頑張っている人を押さえ込むような状況です。 みんなが同じように平等でなければならないという名分の下に格別に飛び出した釘を刺してしまう状況です。 

 

特に教会共同体の中でもよく起こります。 

 

そしてまた自分より年下で弱い者だと思われる人たちには、建前では親切で優しく接するふりをしますが、本音では嫉妬だらけで、すべての噂やフェイクニュースだらけの陰口で相手の名誉を傷つけるようなことが教会共同体の中でもどれほどたくさん起きていますか? 

 

教会は相手の名誉を傷つけるこのようなことを果敢に排斥しなければなりません。 

 

そしてダニエルや救い主がこのような弱い者たちを守り保護し弁護したという事実を常に忘れてはいけません。

 

つまり、教会共同体もダニエルや救い主のように徹底的に弱い者たちを抑える強者を徹底的に排斥し、ひたすら弱い者たちの味方になってあげなければならず、彼らを弁護して守り保護する役割を今現在にも頑張ってしなければなりません。 

 

キリスト信者たちが世の中の人々より先に先頭に立たなければなりません。 ダニエルが先に出てスザンナを弁護し、正義を正しく立てたようにですね。 

 

 

以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

 

3月26日 四旬節第5主日

 

第一朗読

 

エゼキエルの預言

37・12主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。

 

 

福音朗読ヨハネ11・1-45

わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる人は永遠に死ぬことはない。

 

ヨハネによる福音

そのとき、11・1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。

 

ラザロの3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

と聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

四旬節第5主日

2023年3月26日 (日曜日)

 

第一朗読

 

エゼキエルの預言

37・12主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。

 

 

第二朗読

 

使徒パウロのローマの教会への手紙

皆さん、8・8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となっています。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 

 

 

 

福音朗読

 

 

ヨハネによる福音

そのとき、11・1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。

 

ラザロの3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

 

8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

 

お説教

 

マルタ、マリア、ラザロ、この兄妹はみんなイエス様の親友でした。 イエス様は宣教旅行中にこの兄妹の家に遊びに行って、たびたび休んだと福音書は伝えました。 

 

マルタ、彼女は熱心なユダヤ教の信者でした。 復活信仰を徹底的に信じているほど信仰が強く、また救い主と弟子たちを親切にもてなしていた女でした。 

 

マリアは、静かに、沈黙が好きな女性の信者のモデルと言えます。 イエス様が彼女の家にいらっしゃった時、静かにイエス様のみことばを聞きながらイエス様のみことばに耳を傾けたように、今日の福音のみことばでも静かにイエス様と一緒に泣きました。 

 

ラザロの名前の意味は、「助けられる方法がない」という意味だそうです。 人々の間では助けられないと噂されているラザロが救い主の助けを受けました。今日のラザロの復活は、将来起こる救い主の復活のしるしです。 

 

ラザロは死んでから4日が経ち、すでに腐い匂いがすると言いました。 これは、神と人間、人間お互いの人間関係の失いという意味です。 関係の失いは腐い匂いを漂わせ、周りに破壊的な影響を及ぼします。 

 

でも、救い主は救い主ご自分の死と復活を通して神様と人間関係、人間お互いの人間関係の腐敗の悪臭を追い出し、人間に栄光な神様の姿と同じ変化を与える方だと福音書は語っているようです。

 

復活の第一歩は石を片付けることから始まるということを教えてくれます。 

 

石の後ろに横たわっているラザロは、すべての関係、神と人間関係から阻まれています。 

 

人々が石を横に片付ける時、イエス様は祈りを始めました。ラザロの復活は全面的に救い主の祈りで行われ、救い主の復活は救い主自分の十字架の死で行われました。

 

神の子、イエス様は父である神様がいつも自分の祈りを聞いてくださっていることに感謝しました。 

 

イエス様のお祈りはイエス様がご自分でそこに集まった人々に神の栄光を見せようとすることを表わすことでした。 

 

イエス様は大声で叫びました。

 

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11,43)

 

これは、復活の神秘を暗示안지する驚くべきしるしです。 

 

友情深いイエス様のみことばは死の真ん中でも私たちに到達します。 

 

イエス様の愛は死より強いからです。 

 

最後に、復活は死者を包んだ布を解토いて自由に歩けるようにして初めて完成します。 

 

このすべての不可能を可能にしてくださった方が、まさに救い主イエス·キリストでした。 もう一度言いますが、ラザロの復活は将来起こる救い主の死と復活の暗示、あらかじめ示したしるしと言えます。

 

使徒パウロは今日の朗読のみことばでこう教えてくださいました。 キリストの復活を信じるすべてのキリスト信者は、自分たちも将来救い主のように死から復活するので、復活を信じて受け入れた瞬間から聖なる神の霊の人生を生きるように教えてくださいました。

 

聖なる神の霊の人生とは、他でもなく、神様の気に入った人生、キリストの霊を迎えて生きる人生なのです。 

 

だから、自分がいくら毎日ミサに与ってご聖体を迎えても、あるいは毎日聖書を読んでもキリストの霊を迎えなければ何の役にも立たないという意味です。 

 

では、キリストの霊を迎えるということは何ですか? 

 

それは、すなわち、神様のお気に入りの人生です。 神のお気に入りの人生とは、神の御心を行うことです。 

 

先々週と先週も聞いたように、霊と真理をもって神様に捧げる礼拝が何かを学びましたよね? 

 

まさに神の御心を行うことがすなわち、霊と真理をもって神様に礼拝を捧げることだと学びました。 

 

私たちが真実の心で霊と真理をもって神様にまことの礼拝を捧げれば捧げるほどキリストの霊は私たちの中で生きておられることになり、私たちも将来救い主のように死を乗り越えて復活し滅ばないで永遠に生きることになるでしょう。 

 

ですから、これからでも悔い改め、神様に自分のすべての心と関心を向け、神様がおっしゃった神様の御心を行うように一生懸命頑張ってみましょう。 

 

悔い改め、神の憐れみの秘跡、つまり赦しの秘跡できれいに自分の魂を洗いましょう。 ある人は全く赦しの秘跡を受けません。おそらく、ここにいる皆さんのほとんどが赦しの秘跡を受けていません。 そんなに赦しの秘跡を受けたくないですか? これは、神の子が十字架の死で私たちの罪を赦される道を受けたにもかかわらず、私たち自分たちが神の憐れみなどは必要ないと言うのと同じです。 もう四旬節がほぼ終わりに近づいているにもかかわらず、相変わらず告解所に入ってくる人は極めて少数だったり、あるいは全然いません。

 

神様は私たちに自分で善と悪を選択できる自由意志を与えてくださいました。 これは神様が私たちにくださった最高の贈り物です。 でも、この自由意志には必ずそれに相応する責任が伴います。 たった一度も赦しの秘跡を受けずに神の赦しの恵みを受けない人が、後日永遠の命の国に住むということはあり得ないことです。 なぜなら、彼は神の憐れみと赦しを得られなかったため、自分が罪を犯した時に悔い改めて反省するよりは自分で断罪しやすいからです。

 

だから、地獄というのは、自分で自分自身を断罪して自分で歩いて入るのが地獄なのです。 彼には一生神の憐れみというものをもらったことがないからです。 なんて不幸なことでしょう? ですから、元気な時に赦しの秘跡を受けてください。 これ以上歩くことができず、施設に入ると思い切って秘跡を受けられないので、秘跡を受けられる時に積極的に受けることができるようにお勧めします。 私が親切に皆さんが自分の良心をよく調べられるように、巻頭言で何が罪になるのか、その具体的な事例を案内しましたよね? ですから、早く悔い改め、神の憐れみと赦しの恵みを受けて神の御心を行う人生を生き、私たちみんなが永遠の命の国で再び会うべきではないでしょうか? 永遠の命の国で私に会いたくない人は自分が好きなようにしてもいいです。

 

 

アーメン。以上です。 しばらく黙想しましょう。

 

 

 

202年3月24日 金曜日

四旬節第4金曜日

 

第一朗読

知恵2・1a、12-22

神を信じない者はこのように考える。

 

知恵の書

神を信じない者は2・1こう言い合うが、その考えは誤っている。

12「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。

我々のすることに反対し、

律法に背くといって我々をとがめ

教訓に反するといって非難するのだから。

13神に従う人は、神を知っていると公言し、

自らを主の僕と呼んでいる。

14彼らの存在は我々の考えをとがめだてる。

だから、見るだけで気が重くなる。

15その生き方が他の者とは異なり、

その行動も変わっているからだ。

16我々を偽り者と見なし、

汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。

神に従う人の最期は幸せだと言い、

神が自分の父であると豪語する。

17それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。

生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。

18本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。

敵の手から救い出されるはずだ。

19暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。

その寛容ぶりを知るために、

悪への忍耐ぶりを試みるために。

20彼を不名誉な死に追いやろう。

彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」

21神を信じない者はこのように考える。だが、それは間違っている。

悪に目がくらんでいるのだ。

22彼らは神の奥深い御旨を知らず、

清い生活がもたらす報いを期待せず、

汚れない魂の受ける誉れをも認めない。

 

 

福音朗読

 

 

 

ヨハネによる福音

そのとき、7・1イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。2ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。

 

10兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

 

25さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。26あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。27しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」28すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。29わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」30人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

 

 

お説教

 

イエス様を殺そうとした者たちは目の前では批判できず、陰で根拠のないうわさを広め、仲違いしながら陰口をたたく者たちでした。 とても卑怯ですよね? 

 

例えば、イエス様はたった一度も自分を指して神の子だと言ったことがないのに、彼らはイエス様が自分で神の子だと言ったとうその噂を広めました。 実は、イエス様は自分を指して人の子だと本人を紹介しました。 

 

また、イエス様はたった一度も自分を指して王だと言ったことがありませんでした。 ところが、彼らはイエス様が自分で王だと言ったとまたフェイクニュースをまき散らせました。 

 

ところで、このようなことが2000年前だけ起こったのでしょうか? 現代はどうですか? 

 

果たして教会共同体の中では根拠のない嘘の噂、フェイクニュース、陰口が全くないと自信を持って言えますか? 

 

ある人たちは、自分が気になると当事者に直接聞けば解決されることをその当事者とは全く関係のない第3者に連絡して聞くこんなとんでもないことをしたりします。 これもまた根拠のない嘘の噂を広めることではなく、何でしょうか? 

 

また、無駄な告げ口で自分の周りの人々を仲たがいする行為など、言葉でいちいち表現できないほどわが教会の信者たちは自分が気づいたかどうかよく分からないけど、このような罪を犯しているのが事実です。 

 

しかし、このようなことが罪だとは全く気づかない人々がほとんどです。 ただ喋るのが好きな人たちは、このようなことを罪とは思いません。

 

しかし、彼らがつい犯している罪のために心が弱い人たちは簡単に傷付いたりします。 

 

教会共同体に若者たちがいない理由をじっくり考えてみてください。 

 

なぜ若者たちが教会に来ないで去るのか、残っているお年寄りの信者たちがこれを悟らなければならないと思います。 

 

この教会の共同体は、ほとんどがお年寄りの信者たちです。 多数がお年寄りの信者であり、若い信者たちは少数の弱い者です。 多数が思わず何の意識もなく投げる一言と、彼らだけの文化共有に若者たちが入ってくる空間や余裕はありません。 

 

まるで信仰生活を長くしていたお年寄りのユダヤ人たちが若い30代のイエス様を排斥したようにですね。 

 

教皇フランシスコ様はモーセの十戒の第8、「偽証してはならない」という戒めを説明しながら、同時に陰口は人を殺す行為であり、陰口をたたく男や女はみんな一人の名誉を傷つけるテロ犯罪者だとおっしゃいました。 

 

ですから、キリスト者たちは真実の心で愛し合い、愛を伝える人々になるように教えてくださいました。 

 

だから皆さん、テロ犯罪者にならずに愛の言葉を伝えるキリストの使徒たちになりましょう。 以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

3月23日 木曜日

四旬節第4木曜日

 

第1朗読

 

イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ

 

出エジプト記

 

その日、32・7主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。12どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。13どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」14主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 

 

福音朗読

 

神はひとり子をお与えになるほど、世を愛してくださった。神を信じる人は永遠の命に生きる。

 

ヨハネによる福音

そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。5・31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 

41わたしは、人からの誉れは受けない。42しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。43わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。44互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。45わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。46あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。47しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 

 

 

お説教

 

過去の旧約聖書の時代には、神と人をつなぐ橋渡しの役割をした仲介者はモーセでした。 

 

 

 

そして新約聖書の時代から今現在まで、神と人をつなぐ仲介者の役割は誰でしょうか? 

 

 

 

はい、他でもなく、神の子、救い主イエス·キリストです。 

 

 

 

その方は過去に人として来られた時には直接血を流すことでこのことを成し遂げましたが、今現在は血を流さずにこのことを相変わらず成し遂げています。 

 

 

 

まさにこのミサを通してですね。 

 

 

 

しかし、このミサを大したことではないと思う人々がとても多いです。 

 

 

 

聖職者から信者まで。 

 

 

 

滅びる運命に置かれている私たち人間を永遠に生きるようにしてくださる方に、このミサを通してはっきり会えるにもかかわらず、相変わらずカトリック教会の信者という人々はこのミサを大したことではないと思っているのが現実です。

 

 

 

もし彼らが本当に大切にこのミサを思っているなら、命を尽くしてでもこのミサに与るために最善を尽くします。 

 

 

 

しかし、現実はそうではありません。 早すぎるからといって、バスがないということで、部活があるからといって、足が痛いということで、日曜日に出勤しなければならないということで、日曜日に別のスケジュールで忙しいということで、日曜日に休みたいと言うのでなどなど。 

 

 

 

言い訳が本当に多いです。 

 

 

 

このように救い主の業である唯一の救い方法を拒否している今現在のカトリック教会の信者たちも、もしかしたら過去イエス·キリストを救い主として受け入れずに拒否したユダヤ人たちと果たして何が違うと言えるでしょうか? 

 

 

 

肝に銘じてください。ミサは血の流れない救い主イエス·キリストの十字架の犠牲祭祀です。 

 

 

 

皆さんがいくら拒否して受け入れなくても救い主は今日も相変わらずこのミサを通して十字架に釘を刺されるでしょう。 そして私たちに向かって按手してくださるでしょう。 

 

 

 

そして、おっしゃると思います。 「世の中に行って、わたしの御心を行いなさい」と。 

 

 

 

したがって、ミサで救い主を迎えた人々は救い主と共に世の中から捨てられた、疎外された人々の世話をすることと彼らを抑える人々に対して死を覚悟し抵抗する使命を受けました。 

 

 

 

神の御心を行うのはまさにこのようなものではなく、何でしょうか? そうじゃないですか? 

 

 

 

もう一度肝に銘じてください。 ミサだけに与ったからといって救われるわけではないということです。 ミサに与って救い主を自分の体の中に迎えた人は、必ず救い主の御心を行わなければなりません。

 

 

 

以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

6月24日 金曜日 午後15時 聖体顕示式

2022年6月25日 土曜日 カトリック小野幌教会

堅信式

7月ミサ司式担当

7/3 7/10 7/17 7/24 9時  ケン神父様  7/3 7/10 7/17 10時半 パク神父様

 

7/24         10時半 森田神父様

 

7/31          9時   森田神父様   10時半 ケン神父様

 

5月より

平日 月曜日から金曜日 ごミサ時間  7:00~

主日ミサ 土曜日の主日のミサの予定表

● 主日のミサの予定

 

            主日ミサ    主日ミサ

 

    ミサ時刻     9時      10時半

     

    毎月

 

    第1日曜日   第1地区     第3地区

 

    第2日曜日   第2地区     第4地区

 

    第3日曜日   第3地区     第1地区

 

    第4日曜日   第4地区     第2地区

 

    第5日曜日   第1・2地区  第3・4地区

          

 

    ● 土曜日の主日のミサ 

       地区は全地区対応のなってます。

 

      

      毎週土曜日夕べの主日ミサ19時、第4土曜日は16時から教会学校のミサ

 

  

2022年7月3日 日曜日 年間第14主日 ミサ

2022年6月5日 聖霊降臨の主日 主日ミサ 司式ケン・スレイマン神父

2022年6月29日 日曜日 主の昇天 主日ミサ 司式 ケン・スレイマン神父

2022年5月22日 日曜日 復活節第6主日 主日ミサ 司式 ケン・スレイマン神父

2022年5月15日 日曜日 復活節第5主日 主日ミサ 司式 ケン・スレイマン司祭

2022年5月1日 日曜日 復活節第3主日 主日ミサ 司式 ケン・スレイマン司祭

2022年4月17日 日曜日 復活の主日 ミサ

 

 

 

 

2022年1月2日 日曜日 主の公現(祭日)お説教

今日はもう一つの救い主イエス·キリストの降誕節です。だから、皆さんにクリスマスの挨拶を致します。
「皆さん、メリークリスマスand ハッピーnew year 」。
イエス様の降誕節は、実はそもそもはっきり決まっていませんでした。ただ伝統で昔からローマカトリック教会は12月25日、ローマ帝国の太陽神祭りの日に、そしてギリシャ正教会は、この日の主の公現と呼ばれるこの時に主イエス様の降誕節を記念していると知っています。
今日の第一朗読では、もうすぐ来られる救い主はただユダヤ民族だけのために来られる方ではなく、世界のすべての民族のために来られる方であることを強調しています。
そして第二朗読では、そのようにして来られた救い主は、ユダヤ民族だけでなく、全世界の民族にも救いを相続してくださるということを同時に強調しています。
そして最後に今日の福音では、実際、ユダヤ民族ではなく他の民族の代表と呼ばれる東方の星を研究する博士たちが救い主イエス様のもとを訪ね、ユダヤ民族ではない他の民族の代表として救い主に礼拝をしました。
それでは、現代を生きるユダヤ民族ではない、他の民族である私たちは、今日のこのみことばから何を学ぶことができますか?
救い主は、最初から神に仕えていなかった私たちさえも、救いという恵みから忘れずに、自ら尋ねてくださったのではないかと思います。
どれほど偉大な神の憐れみと、愛ではないでしょうか。
私は個人的に神様がくだらない私一人を忘れないで訪ねてきてくださって、そして今も相変わらず面倒を見ていらっしゃるという事実に今も涙が出るほど感動的です。
皆さんは果たしてどうでしょうか? 皆さんも自分で考えるに、神様が皆さん一人一人に訪ねたことを感じていますか? くだらない皆さんに限りない憐れみと愛を今も相変わらず見せてくださっていると感じていらっしゃるかと聞きたいです。
神様は今日も相変わらずあなたご自身を私たちに現わしていらっしゃいます。救い主が生まれるということを律法で知っていたユダヤの司祭や律法学者たちは知っていましたが、彼らは実は救い主を訪ねませんでした。 でも、神でない星を研究し仕えていた人々が神の子のところを訪ね、その方に礼拝をしました。
これは、神を知ってばかりいてはいけないということです。 実際に神を愛さなければならないということです。実践でね。
そして、星が東方の博士たちを救い主に導いてくれたように、私たちも世の中の神を知らない人たちを神様に導く星になってあげましょう。
この世で唯一の王である救い主、そしてこの世で唯一の神である救い主に力を尽くして仕え、またその方をまだ神を知らない人々に伝える光のような人々になるように私たち一緒に頑張りましょう。 アーメン。以上です。 しばらく黙想しましょう。

 

 

 

 

2022年1月1日 土曜日 神の母聖マリアの祝日 お説教

こんにちは。小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者の皆さん、明けましておめでとうございます。新年おめでとうございます。
と私が日本人の新年の挨拶をしましたが、これから神の子供たちであるわがキリスト信者の新年の挨拶についてお知らせてします。
それは、今日の第一朗読でよく出ています。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように」と。
もう一度キリスト信者のスタイルの新年の挨拶を皆さんに挨拶します。

「主が小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者たちを祝福し、小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者たちを守られるように。主が御顔を向けて小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者たちを照らし、小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者たちに恵みを与えられるように。主が御顔を向けて小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者たちに向けて小野幌教会、大麻教会、江別教会の信者たちに平安を賜るように」。

皆さんもこのように挨拶をお互いにやってみませんか。
私がこのように挨拶をした理由は、神様はモーセを通してイスラエルの民におっしゃったように、神様ご自分は私たち人間たちにいつも祝福をくださる方だということです。
これがまさに今日の第一朗読が私たちに伝えるメッセージじゃないかと思います。
このように私たちにいつも祝福をくださる神様は私たち人間たちを支配する支配者ではなく、私たちをいつも面倒を見るお父さんである神様です。お父さんだから、私たちにいつも祝福をくださり、寝ても覚めても私たちの救いのために心配してくださる方だということが、まさに今日の第二朗読のメッセージではないかと思います。
そして今日の福音のみことばで私たちが学べるのは、羊飼いたちの話を聞いた他の人々は、みんな羊飼いたちの話を不思議に思いました。つまり、神の神秘をあまり重要に思っていなかったということです。聞いていたけど、すぐ忘れてしまったということです。
でも、マリア様はそうではなかったということです。マリア様は、マリア様自分に現れた神の神秘についてすべて心に納めて、思い巡らしていたそうです。
私が、私たちがマリア様に学べるべきなのが、まさにこれじゃないかと思います。
以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

 

2021年12月26日 日曜日 聖家族

今日の福音のみことばで少年イエス様がお母さんのマリア様におっしゃったお話を分かりましたか。
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
これは、私たちのいるべき所がどこなのか、はっきりと教えてくださったと言えます。
わがキリスト者たちがいるべき所は、そこはまさに神の国です。
そして神の国が具体的にこの地上で一番実現した所、聖堂。教会。聖堂じゃないですか? そうですよね?
ですから、よ~く教会の聖堂に来てください。 これよりもっと易しい説教はどこにありますか? フフフ。
そしてイエス様のこの言葉を聞いたマリア様が見せた反応は何でしだっけ?
「母はこれらのことをすべて心に納めていた」。
マリア様はイエス様の言葉を一言も忘れませんでした。
私たちもマリア様のように、 こうしないといけませんよね?
簡単ですよね?今日の福音のみことば。
そしてですね、もう一つ申し上げたいのですが、
韓国教会では今日の朗読ではなく、第1朗読のみことばとしてシラ書3章2節から6節、12節から14節、そして第2朗読のみことばとして使徒パウロのコロサイの信徒への手紙3章12節から21節のみことばが宣言されました。
このみことばの核心のメッセージは、第1朗読のみことばは、主を敬う者は自分の親を敬うということで、第2朗読では、主と一緒にする家庭生活はどんな家庭生活であるべきなのか具体的に教えています。
後で家に帰って必ず確認してみてください。
キリスト者の家庭生活の基本は他でもなく、互いに従順する生活です。 それはまさに聖家族がそのように生きていたからです。
しかし、これは単に家族のメンバー同士に該当する言葉ではないはずです。 信者のメンバー同士、お互いに従順して生きる生活でなければなりません。
互いに仕えながら生きる生活、それこそキリストの弟子らしい生活だと私は思いますが、皆さんはいかがですか?
しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에서 소년 예수님께서 어머니 마리아에게 하신 말씀 알아들으셨어요?
"왜 저를 찾으셨어요? 제가 제 아버지의 집에 있어야 하는 줄을 모르셨어요?"
이 말씀은, 우리가 있어야 할 곳이 어디인지 확실히 가르쳐 주셨다고 할 수 있습니다.
우리 그리스도인들이 있어야 할 곳, 그곳은 바로 하느님 나라.
그리고 하느님나라가 구체적으로 이 지상에서 제일 실현된 곳, 바로 성당. 성당이잖아요? 그렇죠?
그러니까 자주 자주 성당에 오세요. 네? 이보다 더 쉬운 강론이 어디 있습니까? ㅎㅎㅎㅎ
그리고 예수님의 이 말씀을 들은 성모님이 보인 반응은 무엇이었어요?
"이 모든 일을 마음 속에 간직하였다."
성모님은 예수님의 말씀을 한마디도 잊어 버리지 않았습니다.
우리도 성모님처럼 이렇게 해야 되지 않겠습니까?
쉽죠? 오늘의 복음 말씀.
그리고요, 한 가지 더 말씀드리고 싶은데,
한국교회에서는 오늘 독서가 아니라 제1독서 말씀으로 집회서 3장 2절에서 6절, 12절에서 14절, 그리고 제2독서 말씀으로 사도 바오로의 콜로새서 3장 12절에서 21절의 말씀이 선포되었어요.
이 말씀의 핵심 내용은, 제1독서 말씀은 주님을 공경하는 이는 자기 부모를 공경한다는 것이고, 제2독서는 주님과 함께 하는 가정생활은 어떤 가정 생활이어야 하는 지 구체적으로 가르쳐 주고 있습니다.
나중에 집에 돌아가셔서 꼭 확인해 보세요.
그리스도인들의 가정 생활의 기본은 다름 아닌 서로 순종하는 생활입니다. 그것은 바로 성가정이 그렇게 사셨기 때문입니다.
그러나 이것은 비단 가족 구성원 끼리 해당하는 말이 아닐것입니다. 신자 구성원 서로 서로도 서로 순종하며 사는 삶이어야 할 것입니다.
서로 순종하며 사는 삶, 그것이야말로 그리스도 제자다운 삶이라고 저는 생각합니다만 여러분은 어떻게 생각하십니까?
잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月25日 土曜日 主の降誕  お説教

 皆さん、今日のこの事件は本当に ものすごくすごい事件です。 それは、神様がまさに私たちと同じ人になったからです。
神様が人になりました。 全宇宙を創造された全能の神様がたかがほこりのような人になったということです。
このものすごく大きな事件が実はよく理解できないですよね?  例えば、皆さん、アリの群れを見たことがありますか。私たちよりものすごく小さなアリの群れが、食べ物を咥えて移動する群れを見たことがあると思います。
神様が、そんなアリの群れのようなわが人々が大好きで、神様が直接私たちのような人になったということです。
それで、私たちが毎朝起きて目をこすったり、トイレに行ってうんこをしたり、ご飯を食べて、シャワーを浴びたりなど、こんな細々しい日常を生きるために私たちのような人になったのです。
では、なぜ神様がそんなことをしてまで人間になろうとされたのでしょうか?
カトリック教会のカテキズムによると、もちろん私たちを罪と死から救うことで私たちを神様ご自分と共に永遠に生きられるようにするためです。
それでは、私たちを神様と永遠に生きられるようにするため、この世に人として来られたことが大きな目的なら、もう少し具体的に入って調べてみると、なぜ神様がここまで人にならなければならなかったのでしょうか?
それはまさに私たちと話したくて。 私たちと話したくて。 私たちと会話したくて、私たちと同じ人間になったのではないかと思います。
私たちの感情、考え、私たちの心を知ってこそ、初めて私たちを救うことができますから。
救いは他でもなく、人間関係を通してもたらされるものなんですよ。 人間関係の中で神の国は作られるものだからです。 人間関係の構築はどれだけ大変で難しいですか。 ところが、神様はこの大変で大変な人間関係を私たちと同じようにするために私たちと同じ人間になったのです。
神様として神の国の玉座に座って命令されることもできるでしょうに、あえて神様はこんな難しい方法を選んだのです。 その理由は神様が創造された人間がこれ以上楽園の外で苦労して生きることが心苦しくて。 私たちが住むここを楽園にするために、神様自ら直接人間になったのです。
したがって、神様が住んでいるここが天国であり、神の国というのです。 天国を、あの遠いところから、私たちの住む、この地に引きずり下ろしてきたのです。 だからこそ、今日の救い主のクリスマスは、ものすごくすごい事件だと言えるのです。
だから、生きている時に神様を自分の救い主として受け入れ、その方の教えに従わなければならないんじゃないですか。神様が直接この地上に降りてきて「ここが天国であり、楽園であり、神の国だ」と宣言されたからですね。
皆さんが見ているあの馬小屋は、神の国の王様の玉座です。 あの馬小屋が神の玉座であり、皆さんが足を踏み入れているここが天国です。
なぜなら、その神の国の王様がここにいらっしゃるからです。
「ローマに行けばローマの法を守るべきだ」という言葉がありますよね? 全宇宙の主である神様が、もうこの世にいらっしゃるのですから、ここが天国ではなく何でしょうか? ですから、私たちは天国に住んでいるので、天国の法律に従わなければなりませんね?
天国の法に従いましょう。 そうしなければならないのではないですか。 私の話が間違いましたか。 天国の法を優先的に守って従わなければなりません。 イエス様がおっしゃった福音が天国の法ではなく、何でしょうか。
天国には神々しか住めません。 神様は、私たちを天国に住む神にするために、神様が直接人間になったのです。 人間を神にするために。 なぜなら、天国には神々しか住めないから。 その神々は全宇宙の主である神様の法律を守りながら生きていく存在なんです。
ですから、天国の法である福音のみことばを受け入れて守りましょう。 最後に、救い主神の子、イエスキリストのクリスマスを心よりお祝い申し上げます。メリークリスマス。以上です。しばらく黙想しましょう。 

여러분, 오늘 이 사건은 정말로 엄청나고 대단한 사건입니다. 그것은, 다름 아닌 하느님이 바로 우리와 똑같은 사람이 되셨기 때문입니다.
하느님이 사람이 되셨어요. 이 온 우주를 창조하신 전능하신 하느님이 일개 먼지와도 같은 사람이 되셨다는 것입니다.
이 엄청나고 대단한 사건이 사실 피부로 잘 와닿지 않죠? 그래서 한 가지 예를 들면, 여러분, 개미 떼를 보신 적이 있으세요? 우리보다 엄청나게 작은 개미떼가 먹을 것을 입에 물고 이동하는 무리를 아마도 보셨을 겁니다.
하느님이요, 그런 개미떼 같은 우리 사람들을 너무 좋아하셔서 하느님이 직접 우리와 같은 사람이 되셨다는 것입니다.
그래서 우리 사람들이 매일 아침에 일어나서 눈 비비고 , 화장실에 가서 똥싸고, 밥먹고, 씻고 하는 등 이런 자질구레한 일상을 살기 위해 우리 사람이 되신 것입니다.
그럼 왜 하느님께서 그런 것을 하면서까지 사람이 되시고자 하셨던 것일까요?
교리서에서 가르치는 것은, 물론 우리를 죄와 죽음에서부터 구원하여 우리을 당신과 함께 영원히 살게 하기 위해서 입니다.
그렇다면 우리를 당신과 영원히 살게 하기 위해 이 세상에 사람으로 오신 것이 큰 목적이라면 좀 더 구체적으로 들어가서 알아보면, 왜 하느님께서 이렇게까지 사람이 되셔야 했던 것일까요?
그것은 바로 우리와 말하고 싶어서. 우리와 이야기하고 싶어서. 우리와 대화하고 싶어서 우리와 똑같은 사람이 되신 것이 아닌가 하고 생각합니다.
우리의 감정, 생각, 우리의 마음을 알아야 비로소 우리를 구원할 수 있을 테니까요.
구원은 다름 아닌 인간관계를 통해서 오는 것이거든요. 인간 관계 안에서 하느님 나라는 만들어 지는 것이기 때문입니다. 인간관계 맺기가 얼마나 힘들고 어렵습니까? 그런데 하느님께서는 이 힘들고 어려운 인간관계를 우리와 똑같이 하시기 위해 우리와 똑같은 사람이 되신 것입니다.
하느님으로서 하늘나라의 옥좌에 앉아 명령하실 수도 있으실텐데 굳이 하느님께서는 이런 어려운 방법을 택하신 것입니다. 그 이유는 당신이 창조하신 인간이 더 이상 낙원 바깥에서 힘들게 사는 것이 마음 아파서. 우리가 사는 이 곳을 낙원으로 만들게 하기 위해서 하느님께서는 몸소 직접 사람이 되신 것입니다.
그러므로 하느님께서 살고 있는 이 곳이 바로 천국이요, 하느님 나라라는 것이죠. 천국을 저 먼 곳에서부터 우리가 사는 이 땅으로 끌고 내려온 것입니다. 그렇기 때문에 오늘 구세주의 성탄 대축일은 대단하고 엄청난 사건이라고 말할 수 있는 것입니다.
그러므로 살아 있을 때 하느님을 나의 구세주로 받아들이고 그분의 가르침을 따라야 하지 않겠습니까? 하느님께서 직접 이 지상에 내려 오셔서 "여기가 바로 천국이요, 낙원이요, 하늘나라다"라고 선포하셨는데 말이죠.
여러분이 보는 저 구유가 바로 하늘나라 임금님의 옥좌입니다. 저 구유가 하느님의 옥좌이고 여러분이 발 딛고 서 있는 이 곳이 바로 천국입니다.
왜냐하면 그 하늘나라 임금님이 바로 여기 계시기 때문이죠.
"로마에 가면 로마의 법을 따라야 한다"는 말이 있죠? 온 우주의 주인이신 하느님이 이제 이 세상에 계시게 되었으니 여기가 바로 천국이 아니고 무엇이겠습니까? 그러므로 우리는 천국에 살고 있으므로 천국의 법을 따라야 하겠죠?
천국의 법을 따릅시다. 그래야 하지 않겠습니까? 제 말이 틀렸습니까? 천국의 법을 우선적으로 지키고 따라야죠. 예수님께서 말씀하신 복음이 천국의 법이 아니고 무엇이겠습니까?
천국에는 신들밖에 살 수 없습니다. 하느님께서는 우리를 천국에 사는 신이 되게 하기 위해 당신이 직접 인간이 되신 것입니다. 인간을 신이 되게 하기 위해. 왜냐하면 천국에는 신들 밖에 살 수 없으니까. 그 신들은 온 우주의 주인이신 하느님의 법을 지키고 따르며 사는 존재들이거든요.
그러므로 천국의 법인 복음 말씀을 받아들이고 지키고 따릅시다. 마지막으로 구세주 하느님의 아들 예수 그리스도의 성탄을 진심으로 축하드립니다. 메리크리스마스. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月22日 水曜日 待降節 12月22日 お説教

今日の朗読のみことばでは、ハンナは後にイスラエルの預言者サムエルを産みました。 彼女は息子を産んでくださった神様に感謝の供え物を捧げました。
そして今日の福音のみことばでは、マリアが救い主を宿いたことについて、感謝と賛美の歌を歌いました。
二人とも、恵みをくださった父である神様に感謝をしたということは同じです。
しかし、違いがあります。
一番重要な違いは、ハンナは自分の祈りの努力の結果、息子を産むことができたということです。
反面、マリアはただ神の恵みの力だけで救い主の母となっていたのです。
つまり、一人の女性は自分の努力で男の子を産み、もう一人の女性は自分の努力とは関係なく、神の恵みによって救い主を産んだのです。
私たちは今日のみことばから2つを学ぶことができます。 一つは、ハンナから学べるけど、神様に切実に祈れば必ず叶うということ、そして私たちもマリア様のように神様の恵みが今も私たちに与えられているということです。
それが何かというと、まさに秘跡の恵みです。 特に、ご聖体秘跡は私たちの努力により私たちが受けているものではありません。 すべて神の憐れみと愛と犠牲の結果、私たちにただで与えられているのです。
ですから、私たちも今日のマリア様のように私たちの努力とは関係なく、ひたすら神の憐れみと愛でくださるこの無限な恵みについて感謝と賛美の歌を歌わなければなりません。
そうじゃないですか? もし、感謝を捧げなければ、私たちは恵みを知らない動物と何の違いがあるでしょうか? ある動物はたまに自分の主人に恵み返しをしたりします。 私たちはそんな動物よりよっぽど優秀じゃないですか。 そうじゃないですか? 私の話が間違ったら、反論してみてください。 以上です。

しばらく黙想しましょう。

오늘 독서 말씀에서는 한나는 훗날 이스라엘의 예언자인 사무엘을 낳게 되었습니다. 그녀는 아들을 낳게 해주신 하느님께 감사의 예물을 바쳤습니다.
그리고 오늘 복음 말씀에서는 마리아가 구세주를 잉태한 사실에 대해 감사와 찬미의 노래를 불렀습니다.
둘 다 자기에게 은혜를 베푸신 하느님 아버지께 감사를 드렸다는 것은 동일합니다.
그러나 차이점이 있습니다.
가장 중요한 차이점은 다름이 아니라, 한나는 자기 기도의 노력의 결과로 아들을 낳을 수 있었다는 것입니다.
반면에 마리아는 오로지 하느님의 은총의 힘으로만 구세주의 어머니가 되셨던 것입니다.
즉, 한 여인은 자기 노력으로 아들을 낳았고, 또 다른 여인은 자기 노력과는 상관없이 오로지 하느님의 은총으로 구세주를 낳았던 것입니다.
우리는 오늘 말씀에서 두 가지를 배울 수 있습니다. 하나는 한나에게서 배울 수 있는데, 하느님에게 간절히 기도하면 반드시 이루어진다는 것과, 그리고 우리도 성모님처럼 하느님의 은총이 지금도 우리에게 주어지고 있다는 것입니다.
그것이 무엇이냐 하면, 바로 성사의 은총입니다. 특히 성체성사는 우리의 노력으로 우리가 누리고 있는 것이 아니죠. 전적으로 하느님의 자비와 사랑과 희생의 결과로 우리에게 무상으로 주어지고 있는 것입니다.
그러므로 우리도 오늘 성모님처럼 우리의 노력과는 상관없이 오로지 하느님의 자비와 사랑으로 베푸시는 이 무한한 은총에 대해 감사와 찬미의 노래를 불러 드려야 하겠습니다.
그렇지 않습니까? 만일 감사를 드리지 않는다면 우리는 은혜도 모르는 짐승과 무슨 차이가 있겠습니까? 어떤 짐승은 간혹 자기 주인에게 은혜를 갚기도 합니다. 우리가 그런 짐승보다 못하지는 않지 않습니까? 그렇지 않습니까? 제 말이 틀렸다면 반박해 보시길 바랍니다. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月20日月曜日 待降節12月20日 お説教

今日の福音でマリア様は天使ガブリエルの訪問を受け、四つの態度を見せてくださいました。
一番目、マリア様は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という挨拶を聞いてとても戸惑いたそうです。
二番目、マリア様はこの挨拶は何のことかと考え込んだそうです。
三番目、救い主を産むことになるという話を聞いて納得のいかない部分について天使に質問しました。
四番目、将来自分の体に起きる変化が神様のされることだということを聞き、またその例として、子供を産めない親戚エレサベトの妊娠の知らせを聞き、マリア様はついに神の計画に従いました。
私たちもマリア様のように、こうしましょう。
パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わる神の神秘をミサのたびに体験します。 そしてこの神秘をまるでマリア様が救い主を胎内に宿いたように、私たちもパンになったキリストの御体を私たちの体の中に保存しましょう。
まず、この驚くべき神秘について、なぜよりによって神様が「私自分」という存在を選択し、私自分の中にいらっしゃるようになったのかをマリア様のように考え込みましょう。
そして、「私自分」という存在を通して、私自分と一緒に神様が一体何をなさる計画なのか理解できない部分について絶えず質問してみましょう。
そして、このすべてのことが永遠にあなたご自分と一緒に生きるようにしようとする神様が私自分に与える愛という事実を悟って、その愛について感謝しながら、これからたびたび私自分にご聖体秘跡を通して来られる救い主イエス·キリストのみことばに従いましょう。 以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음에서 성모님은 천사 가브리엘의 방문을 받고 네 가지 태도를 보여 주었습니다.
첫번째, 성모님께서는 '은총이 가득한 이여 기뻐하여라. 주님께서 너와 함께 계시다'는 인사말을 듣고 무척 놀랐다고 합니다.
두번째, 성모님께서는 이 인사말이 무슨 뜻인지 곰곰이 생각하셨다고 합니다.
세번째, 구세주를 낳게 될 것이라는 말을 듣고 납득이 안가는 부분에 대해서 천사에게 질문하셨습니다.
네번째, 장차 자기 몸에 일어날 변화가 곧 하느님께서 하시는 일이라는 것을 듣고, 또 그 예로 아이를 못낳는 친척 엘리사벳의 임신 소식을 듣고나서 성모님은 마침내 하느님의 뜻에 순종하였습니다.
우리도 성모님처럼 이렇게 합시다.
빵과 포도주가 그리스도의 몸과 피로 변하는 하느님의 신비를 미사 때 마다 체험합니다. 그리고 이 신비를 마치 성모님께서 구세주를 태내에 잉태한 것처럼, 우리도 빵이 되신 그리스도의 몸을 우리 몸 안에 저장합니다.
첫째, 이 놀라운 신비에 대해 왜 하필 하느님께서 '나'라는 존재를 선택하시어 내 안에 오시게 되었는지 성모님처럼 곰곰이 생각해 봅시다.
그리고 '나'라는 존재를 통해, 나와 함께 하느님께서는 도대체 무슨 일을 하실 계획이신지 이해가 되지 않는 부분에 대해서 끊임없이 질문해 봅시다.
그리고 이 모든 일이 영원히 당신과 함께 살게 하려는 하느님께서 내게 베푸시는 사랑이라는 사실을 깨닫고 그 사랑에 대해 감사하면서 앞으로 자주 내게 성체 성사를 통해 오실 구세주 예수 그리스도의 말씀에 순종합시다. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月19日 日曜日 待降節第4主日 お説教

今日の第一朗読のみことばでは救い主がどこで誕生されたかについて具体的にお知らせてくださいました。そこはすなわち、イスラエルの中に一番小さい村のベツレヘムです。
そして第二朗読のみことばでは救い主がお望みになるプレゼントはいけにえや献げ物ではなく、ただ私たちの従順だとおっしゃいました。つまり、神の御心を行うことがまさに救い主が一番お望みになるプレゼントだとおっしゃいました。
そして最後に今日の福音のみことばではいらっしゃる救い主は主である神様ということを洗礼者ヨハネのお母さんのエリサベトを通してお知らせてくださいました。エリサベトは救い主を宿したマリアに向かって「わたしの主のお母さま」と言いましたよね?
そして一番祝福された人はどんな人なのか今日の福音の最後で教えてくださいました。それは、主のみことばを信じてその御心を行うために頑張るすべての人々がみんな神の祝福を受けた人ということをエリサベトの口を通して教えてくださいました。その祝福の一番トップになった方がまさにマリア様ですね。
分かりましたか。神様が私たちに一番お望みになるのはすなわち、神の御心を行いながら生きることだということを。
では、その神様の御心は何でしょうか。福音書全部見てください。神の子、イエスキリストがどのように父である神様の御心を行いながら生きられたか自分の目で見て学んでください。
そして、フランシスコ教皇様は、今までの消費至上主義のクリスマスのお祝いのやり方を捨て、より真剣に救い主のクリスマスを迎えるようにおっしゃいました。 つまり、救い主の馬小屋の前に座り、沈黙と祈り、そして施しでクリスマスを祝うようにしなければなりません。 馬小屋の前に座った羊飼いたちのように。 以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 제1독서 말씀에서는 구세주께서 어디에서 탄생하시는 지 구체적으로 알려 주셨습니다. 그곳은 다름 아닌 이스라엘 중에서 가장 보잘것없는 마을인 베들레헴입니다.
그리고 제2독서 말씀에서는 구세주께서 원하시는 선물은 제물이나 예물이 아니라, 단지 우리의 순종이라고 말씀하셨습니다. 즉, 하느님의 뜻을 실천하는 것이 다름 아닌 구세주께서 가장 원하시는 선물이라고 말씀하셨습니다.
그리고 마지막으로 오늘 복음 말씀에서는 오시는 구세주는 주님이시라는 사실을 세례자 요한의 어머니인 엘리사벳을 통해 알려 주셨습니다. 엘리사벳은 구세주를 잉태한 마리아를 향해 "내 주님의 어머니"라고 말씀하셨지 않습니까?
그러면서 가장 축복받은 사람은 어떤 사람인지 복음 마지막에서 알려 주었습니다. 주님의 말씀을 믿고 그 뜻을 실천하기 위해 힘쓰는 모든 사람이 다 하느님의 축복을 받은 사람이라는 사실을 엘리사벳의 입을 통해 알려 주셨습니다. 그 축복의 가장 으뜸이 되신 분이 바로 성모님이시고요.
아시겠습니까? 하느님께서 우리에게 가장 원하시는 것은 다름 아닌 하느님의 뜻을 실천하며 사는 것이라는 것을.
그럼 그 하느님의 뜻은 무엇이겠습니까? 복음서 전체를 보십시오. 성자 예수 그리스도께서 어떻게 하느님의 뜻을 실천하며 사시는 지 눈으로 보고 배우시길 바랍니다.
그리고 프란치스코 교황님께서는 지금까지 해오던 소비지상주의 성탄의 축하 방식을 버리고 보다 진실되게 구세주의 성탄을 맞이하도록 말씀하셨습니다. 즉, 구세주의 구유앞에 앉아 침묵과 기도와 그리고 자선으로 성탄을 축하하도록 해야 하겠습니다. 구유 앞에 앉은 목자들처럼. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月15日 水曜日 待降節第3水曜日 お説教

今日の福音のみことばで、洗礼者ヨハネすらイエス様がいらっしゃることになっている救い主なのかこんがらかったんです。 洗礼者ヨハネが分かっていた限り、救い主は正義の審判者だったからです。 それで、自分の弟子たちに指示して、イエス様に本当にいらっしゃることになっている救い主が正しいのか聞いてみろと言いました。
イエス様はおっしゃいました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とおっしゃいました。
そして実際にそうなさいました。 福音書がこれを証してくれます。 だから、そんな場面を目撃することになるから、疑わずに信じなさいと確信をくれました。
皆さんはどうですか? 今現在はどうですか。 教会は施しの対象を貧しい人たちと優先的にするように勧めます。 なぜなら、貧しい人々の中に救い主が生きているからです。 だから今現在の救い主をきちんと調べるためには貧しい人を見ればいいのです。 貧しい人々、弱い者たち、まさにこのような人々の中に救い主が生きておられるということです。
したがって、お越しになる救い主をしっかり迎えて仕えるには、貧しい人々、弱い者を訪ねて仕えてください。 以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에서 세례자 요한조차 예수님이 오시기로 되어 있는 구세주 인지 헷갈렸습니다. 세례자 요한이 알기로는 구세주는 정의의 심판자였기 때문입니다. 그래서 자기 제자들에게 지시하여 예수님에게 정말로 오시기로 되어 있는 구세주가 맞는지 물어보라고 하였습니다.
예수님께서는 말씀하셨습니다. "눈먼이들이 보고 다리저는 이들이 제대로 걸으며 나병환자들이 깨끗해지고 귀먹은 이들이 들으며 죽은 이들이 되살아나고 가난한 이들이 복음을 듣는 장면을 목격하게 될 것이다"라고 말씀하셨습니다.
그리고 실제로 그렇게 하셨죠. 복음서가 이를 증명해 줍니다. 그러니까 그런 장면을 목격하게 될테니 의심하지 말고 믿어라고 확신을 주셨습니다.
여러분은 어떻습니까? 오늘날에는 어때요? 교회는 자선의 대상을 가난한 이들로 우선적으로 삼도록 권고합니다. 왜냐하면 가난한 이들 안에 구세주께서 살아계시기 때문에 그렇습니다. 그러므로 오늘날에 구세주를 제대로 확실히 알아 보려면 가난한 사람들을 보면 됩니다. 가난한 사람들, 약자들, 바로 이런 이들 안에 구세주께서 살아 계신다는 것입니다.
그러므로 오시는 구세주를 제대로 맞이하고 섬기려면 가난한 사람들, 약자들을 찾아가고 섬기시길 바랍니다. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月13日 月曜日 聖ルチアの記念日 お説教

今日の福音のみことばで祭司長や民の長老たちがイエスさまに尋ねました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」

この言葉をもう一度考えてみると、「何の権威で私たちの人生に口を挟むんですか?」ということです。

祭司長や民の長老たちは、イエス様が来ることになっている救い主だとは知りませんでした。 予想すらできませんでした。 なぜなら、彼らが想像する救い主の姿ではなかったからです。

今現在も同じです。 私たちは果たして、いらっしゃる救い主をどんな姿で想像していますか? かわいい赤ちゃん? それとも栄光の姿でやってくる権力者?

もしかしたら救い主は既にいらっしゃって皆さんの中に住んでいるかもしれません。 例えば、施設にいるある90代のお年寄りの姿とか、突然皆さんの家のベルを押すホームレスとか、それとも皆さんが心から憎悪する敵なのかもしれません。

いずれにせよ私たちの予想とは違ってすでに私たちといっしょに住んでいるかもしれないのです。 誰が救い主なのか分からないかも知れないということです。 誰が救い主なのかどうか分からないから、人に会うたびに救い主を対するように接するしかないと思います。

でも、救い主を見分けることができる一つ確かなことがあります。あの方は貧しい人々が好きだということです。 貧しい人、精神的にも体的にも弱い者たち、そして、社会的にもいじめられたり、疎外された人たちの中に救い主がはっきり生きていることは、明確に否定することのできない事実です。

少なくとも、私たちはその昔、目の前で救い主と会話をしていたにもかかわらず、救い主に気づかなかった祭司長や民の長老たちのようにはなってはいけません。 私たちは、聖書から過去の前例を学んだのですから。 二度と過去の過ちを繰り返すことのないよう、常に祈って目覚めていかなければなりません。

以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에서 수석사제들과 백성의 원로들이 예수님께 물었습니다.

"당신은 무슨 권한으로 이런 일을 하는 것이오? 그리고 누가 당신에게 이런 권한을 주었소?"

이 말을 다시 한번 생각해 보면, "당신은 무슨 권한으로 우리 삶에 참견을 하는 것이오?" 라는 것입니다.

수석사제들과 백성의 원로들은 예수님이 오시기로 되어 있는 구세주이신 줄 몰랐습니다. 예상 조차 할 수 없었습니다. 왜냐하면, 그들이 상상하는 구세주의 모습이 아니었기 때문입니다.

오늘날에도 마찬가지입니다. 우리는 과연 오시는 구세주를 어떤 모습으로 상상하고 있습니까? 귀여운 아기? 아니면, 영광을 떨치며 오는 권력자?

어쩌면 구세주는 이미 오셔서 여러분 가운데에 살고 계실지도 모릅니다. 시설에 있는 어느 90대 노인의 모습이거나, 불쑥 여러분의 집의 초인종을 누르는 어느 노숙자이거나, 아니면 심지어 여러분이 마음으로부터 증오하는 어느 웬수일지도 모르겠습니다.

하여간 우리 예상과 다르게 이미 우리 가운데에 함께 살고 계실지도 모르는 일인 것입니다. 누가 구세주인지 모를 수도 있다는 것입니다. 누가 구세주인지 모르니 사람을 만날 때 마다 구세주를 대하듯이 대할 수 밖에 없다고 생각합니다.

그러나 구세주를 알아볼 수 있는 한 가지 확실한 것이 있습니다. 그분은 가난한 사람들을 좋아하신다는 것입니다. 가난한 사람, 정신적으로나 육체적으로나 약한 사람들, 그리고 사회적으로 왕따당하거나 소외된 사람들 안에 구세주께서 확실히 살아 계신다는 것은 명백하게 부인할 수 없는 사실입니다.

적어도 우리는 그 옛날 눈 앞에 구세주를 보고 구세주와 대화를 하고 있었음에도 불구하고 구세주를 알아보지 못했던 수석사제들과 백성의 원로들처럼은 되지 말아야 하겠습니다. 우리는 성서를 통해 과거의 전례를 이미 배웠으니까요. 두 번 다시 과거의 잘못을 되풀이하는 과오는 되풀이하지 않도록 늘 기도하며 깨어 있어야 하겠습니다.

이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月12日 日曜日 待降節第3主日 お説教

待降節第三主日です。 もうすぐ主イエス·キリストが私たちにいらっしゃるという意味です。 皆さんが見ているように、 あの待降節のろうそくにろうそくが3つもついています。 今日を指して教会はバラの主日だそうです。 司祭は今日, ピンクの祭服を着, 救い主は間もなく信者たちに来られるということを知らせます。
信者たちに知らせながらいらっしゃる救い主に差し上げるプレゼントが何か教えてくれます。
それは、今日の典礼のみことばとおり、簡単に言えば、施し(慈善)の実践と毎日感謝しうれしく生きることです。
それで今日を指して教会は施し(慈善)の主日といって、信者たちに私たちが救われるために必ず必要なものが他でもなく施し(慈善)だと教えます。
今日の福音のみことばで、洗礼者ヨハネは悔い改めた証拠を見せろと教えました。 本当に悔い改めた証拠として、自分が持っているものを惜しまず、助けが必要な人たちに計算せず、そのままありのまま全部配りなさいとおっしゃいました。
ところが、惜しみなく施し(慈善)を実践すると、不思議な現象が起きます。 それは、自分の心が自然に嬉しくなるということです。 それで施し(慈善)をこつこつと実践する人は毎日の日常生活を憂鬱にならないで嬉しく生きて行くというのです。 だからこそ今日の典礼のみことばは納得できます。 施し(慈善)を実践してこそ私たちは嬉しくなれるという事実を。
こんな言葉があります。 「年を取ったら口を閉じて財布を開けなさい。」
助けが必要な貧しい人に施す施し(慈善)の実践に、自分の財布を開けることをためらわないでください。
トビト記12章8節のみことばを心の中に刻みましょう。 「金をため込むよりも慈善の業をする方がはるかにすばらしいことなのです」 。
以上です。しばらく黙想しましょう。

대림 제3주일입니다. 머지않아 곧 주 예수 그리스도께서 우리에게 오신다는 뜻입니다. 여러분이 보는 것처럼 저 대림환에 초가 세개나 켜져 있습니다. 오늘을 가리켜 교회는 장미 주일이라고 합니다. 사제는 오늘 분홍색 제의를 입어 구세주께서 머지않아 곧 오실 것이라는 사실을 신자들에게 알립니다.
신자들에게 알리면서 오시는 구세주에게 드릴 선물이 무엇인지 알려 줍니다.
그것은, 오늘 전례 말씀에서 들은 바대로, 쉽게 말하면, 자선의 실천과 매일 감사하며 기쁘게 사는 것입니다.
그래서 오늘을 가리켜 교회는 자선 주일이라고 하여 신자들에게 우리가 구원받기 위해서 꼭 필요한 것이 다름 아닌 자선이라고 가르칩니다.
오늘 복음 말씀에서 세례자 요한은 회개했다는 증거를 보이라고 가르쳤습니다. 진실로 회개했다는 증거로 자기가 가진 것을 아까워하지 말고 도움이 필요한 사람들에게 계산하지 말고 그냥 있는 그대로 다 나눠 주라고 말씀하셨습니다.
그런데 자선을 아낌없이 실천하다 보면 신기한 현상이 일어납니다. 그것은 내 마음이 저절로 기뻐진다는 것입니다. 그래서 자선을 꾸준히 실천하는 사람은 매일의 일상생활을 우울해 하지 않고 기쁘게 살아간다는 것입니다. 그렇기 때문에 오늘 전례 말씀은 납득이 갑니다. 자선을 실천을 해야만 우리는 기뻐질 수 있다는 사실을 말이죠.
이런 말이 있습니다. '나이가 들면 입은 닫고 지갑을 열어라.'
도움이 필요한 가난한 사람에게 베푸는 자선의 실천에 자기 지갑을 여는 것을 주저하지 마시길 바랍니다.
토빗기 12장 8절의 말씀을 가슴 속에 새기도록 합시다. '금을 쌓아두는 것보다 자선을 베푸는 것이 낫다.'
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月8日 水曜日 無原罪の大祝日 お説教

今日は無原罪のマリアの大祝日です。 すでに教会は無原罪のマリアを信条で宣言して過ごしているので、特別な説明はしません。
ただし、私たちが無原罪のマリアの祝日に忘れてはならないことがあります。 それは、
そもそも、アダムとエバーは人類の親として神様から選ばれましたが、神様と同じようになりたがる彼らの傲慢な心の結果から、原罪が生まれてしまったのです。 そもそも、アダムとエバーは罪のない状態で天国に入って暮らす予定だったのですが、彼らの罪によって楽園から追放され、神との関係性さえも破壊されてしまったのです。
そして、その子孫も罪に支配される人間性を持って生まれるようになってしまいました。
ところが、神様は人類救いのために神の子を派遣する際に、マリアを選択され、そのマリアは生まれる瞬間から、原罪から保護されました。
今日の福音のみことばで、天使ガブリエルの言葉で「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1、28)では「恵まれた」という表現はまさに聖霊でいっぱい満ちているという表現です。
私たちも、洗礼の秘跡と堅信の秘跡を通して、神の恵みを受け、神の子供として生まれ、また恵みの生活を通して福音を証として生きるようになりました。 イエス·キリストを通して私たちに与えられた恵みの保証は、まずマリア様の誕生の前、マリア様が胎内にいらっしゃった時から始まったことを、今日の祝日は確認してくれます。
私たちがマリア様から学べることは、他でもなく、マリア様の神への従順です。
マリア様は自分の意思を諦め、神のみ旨に従順したため、私たちはマリア様を教会の母として今現在までこのように敬っているのです。
今日の福音の最後に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というマリア様の答えが毎日の生活の中でキリストの福音を証して生きる私たちの答えになってほしいです。 以上です。しばらく黙想しましょう。 ちなみに、今日は韓国カトリック教会の守護聖人である無原罪のマリアの大祝日です。

오늘은 원죄없이 잉태되신 성모 마리아 대축일입니다. 이미 교회는 성모님의 원죄없이 잉태되심을 믿을교리로 선포하며 지내고 있기 때문에 큰 설명은 하지 않겠습니다.
다만, 우리가 원죄없이 잉태되신 성모님의 축일에 잊어버리지 말아야 할 것이 있습니다. 그것은,
본래 아담과 하와가 인류의 부모로서 하느님의 선택을 받았지만, 하느님과 같아지려는 그들의 교만한 마음의 결과로 원죄가 태어나게 되었습니다. 본래 아담과 하와는 죄 없는 상태로 하늘나라에 들어가 살도록 예정되었지만 그들의 죄로 인해 낙원에서 추방되었고, 하느님과의 관계성 마저 파괴되고 말았죠.
그리고 그 후손들도 죄의 지배를 받는 인간성을 가지고 태어나게 되어 버렸습니다.
그런데 하느님께서는 성자를 인류구원을 위해 파견하실 때 마리아를 선택하셨고, 그 마리아는 잉태되는 순간부터 원죄로부터 보호받으셨습니다.
오늘 복음 말씀에서 천사 가브리엘의 말에서 “은총이 가득한 이여, 기뻐하여라. 주님께서 너와 함께 계시다.”(루카 1, 28)에서 '은총이 가득하다'는 표현은 곧 성령으로 충만하다는 표현입니다.
우리도 세례 성사와 견진성사를 통해 하느님의 은총을 받아 하느님의 자녀로 태어났고, 또 은총 생활을 통하여 복음을 증거하며 살게 되었습니다. 예수 그리스도를 통하여 우리에게 주어진 은총의 보증은 먼저 성모 마리아의 잉태 때부터 시작되었음을 오늘 축일은 확인해 주는 것입니다.
우리가 성모님에게서 배울 수 있는 것은 다름 아닌 성모님의 하느님께 대한 순종입니다.
성모님께서는 자신의 뜻을 포기하고 하느님의 뜻에 순종하셨기 때문에 우리는 성모님을 교회의 어머니로 오늘날까지 이렇게 공경하고 있는 것입니다.
오늘 복음 마지막에서 “보십시오. 저는 주님의 종입니다. 말씀하신대로 저에게 이루어지기를 바랍니다.”라는 성모님의 응답이 매일 일상 생활 속에서 그리스도의 복음을 증거하며 사는 우리의 응답이 되기를 바랍니다. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다. 참고로 오늘은 한국 천주교회의 수호자이신 원죄없이 잉태되신 성모 마리아 대축일입니다.

 

 

 

 

2021年12月6日 月曜日 待降節第2月曜日 お説教

昨日韓国に帰れというそんな話を聞いて、ミサをして説教するのは簡単ではないですね。 まだ私の心は傷ついた心のままなのに。 それでもしなければならないことはしなければならないので、するようにします。
今日の福音のみことばをよくお聞きになりましたか? イエス様が中風を患っている人を治した事件の話でした。 この話の中で一番核心となるものだけを申し上げます。
イエス様が中風を患っている人を見て一番先におっしゃったみことばが他でもなく、「あなたの罪は赦された」でした. このみことばを聞いたファリサイ派の人々はかっとなりました。 そして心の中で「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか」と心の中で反発しました。
当時のユダヤ人の考え方としては、人間が人間の罪を赦せるということは、到底ありえないことだと考えました。 彼らは自分たちの罪を牛や羊にかぶせましたから。 彼らはそういう方法で自分の罪を償ったのです。
その牛や羊に人々の罪をかぶせたことを、今神の子であるイエス様が直接なさるという意味です。 イエス様が今日の福音のみことばで、「あなたの罪は赦された」とおっしゃったのは、他でもなく、イエス様ご自分で人々の罪を被るということです。 それで、人々の代わりにイエス様ご自分が罪人になって犠牲されるという意味です。 つまり、イエス様ご自分で犠牲になって、人々を罪からきれいにしてあげるということです。 わがイエス様はまさにこのような方です。
私たちは、奇跡や恵みが一番大変だと思っていますが、一番大変なのは、私たちの罪が洗礼の秘跡を通して赦された事実なのです。なぜなら、奇跡や恵みはイエス様のみことばによって可能ですが、罪の赦しはイエス様の十字架の受難によって成し遂げたものだからです。 一番難しいことである赦してもらったことの恵みをもっと黙想し、感謝する一週間になってほしいです。

어제 돌아가라는 그런 소리를 듣고 미사를 하고 설교를 하는 것이 쉽지 않네요. 아직 제 마음은 상처받은 마음 그대로인데. 그래도 해야 할 것은 해야 하니까 하도록 하겠습니다.
오늘 복음 말씀을 잘 들으셨죠? 예수님께서 중풍병자를 낫게 해 주신 사건의 이야기였습니다. 이 이야기에서 가장 핵심이 되는 것만 말씀 드리겠습니다.
예수님께서 중풍병자를 보시고 가장 먼저 하신 말씀이 다름 아닌 "네 죄를 용서받았다"였습니다. 이 말을 들은 바리사이파 사람들은 발끈하였습니다. 그리고는 마음 속으로 '저 사람이 하느님을 모독하는 군. 하느님 말고 누가 죄를 용서할 수 있다는 말인가?' 하고 속으로 반발하였습니다.
당시 유다인들의 사고방식으로는 사람이 사람의 죄를 용서할 수 있다는 것이 도저히 있을 수 없는 일이라고 생각하였던 것 같습니다. 그들은 자기들의 죄를 소나 양에게 뒤집어 씌웠으니까요. 그들은 그런 방식으로 자기 죄를 씻었던 것입니다.
그 소나 양에게 사람들의 죄를 뒤집어 씌웠던 것을 이제 하느님의 아들이신 예수님께서 직접 하시겠다는 뜻입니다. 예수님께서 오늘 복음 말씀에서 "네 죄를 용서받았다"고 말씀하신 것은 다름아닌 예수님 본인이 사람들의 죄를 뒤집어 쓰겠다는 것입니다. 그래서 사람들 대신에 예수님 본인이 죄인이 되어 희생하시겠다는 뜻입니다. 본인이 스스로 희생하셔서 사람들을 죄로부터 깨끗하게 만들어 주시겠다는 것입니다. 우리 예수님은 바로 이런 분이십니다.
우리들은 기적이나 은혜가 가장 힘든 줄 알지만 가장 힘든 것은 우리의 죄가 세례성사를 통해 용서받은 사실이란 것입니다. 왜냐하면 기적, 은혜는 예수님의 말씀으로 가능하지만 죄의 용서는 예수님의 십자가의 수난으로 이뤄낸 것이기 때문입니다. 가장 힘든 일인 용서받음의 은혜를 더욱 더 묵상하며 감사하는 한주간이 되셨으면 좋겠습니다.

 

 

 

 

2021年12月5日 日曜日 待降節第2主日 お説教

今日は待降節第二主日です。 すでに待降節のろうそくに紫色のろうそくの二本に火がついています。
もう待降節が二週間になったという意味です。
今日の朗読と福音のみことばの核心テーマは他でもなく、いらっしゃる救い主を迎える時に私たちが持つべき態度は何なのか教えてくれました。
それは今日の福音のみことばで登場した「荒れ野で叫ぶ者の声」でした。「荒野で叫ぶ者の声」は誰ですか。 はい、それは洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネは何とおっしゃいましたか? 「主の道を整え」とおっしゃったでしょう?  この主の道を整えるのが、まさに悔い改めということです。
それでは、悔い改めとは、何でしょうか? それは第一朗読のみことばと第二朗読のみことばで、とても優しく教えてくれました。
第一朗読のみことばで教えてくれたとおり、悔い改めとは、「東の方に目を向ける」ということです。では、「東の方に目を向ける」というのは何でしょうか。 まさに太陽が昇るところ、つまり、光の中の光、まことの太陽である救い主イエス·キリストのもとへ目を向けるということです。
そうしてイエス様へ自分の目を向けてイエス様が教えてくださった掟通り実践して「清い者、とがめられるところのない者」に変化することです。
さあ、これで悔い改めが何かよく分かりましたね? それでは変化しましょう。 イエス様に自分の目を向け、世の中の人ではなく、イエス様のみ旨を実践するイエス様の人になるよう、私たちの行動の根本的な変化を目指しましょう。
そのためには、私たちは毎回、神のみことばに目覚めなければなりません。 世の中の価値観ではなく、神の国の法の価値観を持たなければなりません。 そのためには常に「イエス様なら、今この状況でどのように行動する?」という問いを常に聞かなければなりません。
そうして、私たちはみんな、生活と行動に根本的かつ具体的な変化をし救い主イエス·キリストを喜んで迎えるようにしましょう。 私を含めて私たちみんなで努力してみましょう。 一人では大変だけど、共同体が一緒にイエス様に自分の目を向ければ十分にできると私は確信しています。 アーメン、しばらく黙想しましょう。

오늘은 대림 제2주일 입니다. 벌써 대림환에 자색초 두개째에 불이 켜져 있습니다.
대림절 중반이라는 뜻이죠.
오늘 독서와 복음 말씀의 핵심 주제는 다름이 아니라, 오시는 구세주를 맞이할 때 우리가 갖추어야 할 태도는 무엇인지 가르쳐 주었습니다.
그것은 다름아닌 오늘 복음 말씀에서 등장한 광야에서 외치는 이의 소리였습니다. 광야에서 외치는 이의 소리는 누구입니까? 네, 바로 세례자 요한이죠.
세례자 요한께서 뭐라고 말씀하셨습니까? 주님의 길을 마련하라고 말씀하셨죠. 바로 이 주님의 길을 마련하는 것이 다름 아닌 회개라는 것입니다.
그럼 회개는 무엇일까요? 그것은 제1독서 말씀과 제2독서 말씀에서 아주 친절하게 가르쳐 주셨습니다.
제1독서 말씀에서 가르쳐 주신 대로 회개란, 동쪽으로 눈을 돌려 보는 것입니다. 동쪽으로 눈을 돌려 본다는 것은 무엇입니까? 다름 아닌 해가 뜨는 곳, 즉, 빛 중의 빛, 참 태양이신 구세주 예수 그리스도께로 시선을 향하는 것을 말합니다.
그리하여 예수님에게로 자기 시선을 돌려 예수님이 가르쳐 주신 계명대로 실천하여 순수하고 나무랄데가 없는 사람으로 변화되는 것을 말합니다.
자, 이제 회개가 무엇인지 잘 아셨죠? 그럼 변화합시다. 예수님에게로 우리 시선을 돌리고, 세상의 사람이 아니라 예수님의 뜻을 실천하는 예수님의 사람이 되도록 우리 행동의 근본적인 변화를 추구합시다.
그러려면 우리는 매 순간 하느님의 말씀에 깨어 있어야 합니다. 세상의 가치관이 아니라 하느님의 나라의 법의 가치관을 지녀야 합니다. 그렇게 하기 위해서는 늘 언제나 '예수님이라면 지금 이 상황에서 어떻게 행동하실까?'라는 물음을 늘 가져야 할 것입니다.
그리하여 우리 모두 생활과 행동에 근본적이고 구체적인 변화를 일으켜 다가오시는 구세주 예수 그리스도를 기쁘게 맞이하도록 해 봅시다. 저를 포함하여 우리 모두 함께 노력해 봅시다. 혼자는 힘들겠지만, 공동체가 함께 예수님에게로 시선을 돌린다면 충분히 할 수 있을 거라고 저는 확신합니다. 아멘. 잠시 묵상하겠습니다.

2021年11月30日火曜日 聖アンデレの祝日 お説教

今日の福音のみことばでイエス様はガリラヤ湖のほとりを通りました。偶然にそこを通り過ぎたのでしょうか。 それともどんな計画を持って通り過ぎたのでしょうか。 それについてよくわかりません。
 福音書がそれを教えてくれなかったので。 でも、はっきりわかることは、イエス様がガリラヤ湖から福音宣教の業が始まったのは明らかです。 イエス様の一番目のレーダーに引っかかった人たちがいました。 ガリラヤ湖の漁師たちでした。 
私も新しい司祭の聖地巡礼の時にガリラヤ湖に行ったことがありますが、その湖はとても広くてまるで海みたいでした。 だからそこに漁師たちがいたということが分かります。 イエス様は一番目にレーダーにかかった漁師たちをあなたご自分の弟子として呼びました。 そこにいた漁師が、今日の祝日を迎えた使徒聖アンデレです。 そして同僚の使徒ゼベダイの息子、ヤコブとヨハネでした。  彼らはイエス様のみことばを聞いてすぐにその方に従ったそうです。 理解できません。 日頃その方を知らなくては、そんなに簡単にその方に従っていくことができたのでしょうか。 見知らぬ人を何を信じて。 
福音書にはまだ出ていませんが、私が想像した限り、既にイエス様に従って行った最初の弟子たちは、イエス様に対する信頼があったのではないかと思います。 信頼しない方にどうして従えますか?
キリスト教は、カトリック教会はイエス様からこのように始まりました。 聖書は福音を受け入れたキリスト者たちの始まりについて、今日、このように伝えているのです。 そして今日もたくさんの宣教師によって福音が伝えられています。 その昔イエス様と使徒たちがなさったように。  以上です。
しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에서 예수님께서는 갈릴래아 호숫가를 지나가셨습니다. 우연히 그곳을 지나가셨을까요? 아니면 어떤 계획을 갖고 지나가셨을까요? 알 수 없습니다. 복음서가 그것을 가르쳐 주지 않았기 때문에.
그러나 확실히 알 수 있는 것은 예수님이 갈릴래아 호수에서부터 복음 선교 사업이 시작되었다는 것은 분명합니다.
예수님의 첫번째 레이더에 걸려 든 사람들이 있었습니다. 바로 갈릴래아 호수의 어부들이었습니다. 저도 새사제 성지 순례 때 갈릴래아 호수에 가본 적이 있지만, 그 호수는 너무 넓어서 마치 바다와 같았습니다. 그래서 거기에 어부들이 있었다는 것이 이해가 됩니다.
예수님께서 첫번째로 레이더에 걸린 어부들을 당신의 제자로 부르셨습니다. 거기에 있었던 어부가 바로 오늘 축일을 맞은 사도 성 안드레아입니다. 그리고 동료 사도 제베데오의 아들 야고보와 요한이었습니다.
그들은 예수님의 말씀을 듣고 곧바로 그분을 따랐다고 합니다.
이해할 수 없습니다. 평소에 그분을 알지 않고서는 그렇게 간단히 그분을 따라갈 수 있었을까요? 낯선 사람을 뭘 믿고. 복음서에서는 다 나오진 않았지만 제가 상상해 보았을 때는 아마도 이미 예수님을 따라간 첫 제자들은 예수님에 대한 신뢰가 있지 않았을까 하는 생각을 해 봅니다. 신뢰하지 않는 분을 어떻게 따를 수 있겠습니까?
그리스도교는, 가톨릭 교회는 예수님에게서 이렇게 시작되었습니다. 성서는 복음을 받아들인 그리스도인들의 첫 시작에 대해 오늘 이렇게 전하고 있는 것입니다. 그리고 오늘도 많은 선교사들에 의해 복음이 전해 지고 있습니다. 그 옛날 예수님과 사도들이 하셨던 것처럼.
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年11月28日 日曜日 待降節第1主日 お説教

今日から新年が始まります。 皆さん、あけましておめでとうございます。 
待降節と言いますね。 何を待ってますか? 誰を待ってますか? 懐かしい自分の愛する方を待ちますか。 その方って誰ですか。はい、それは救い主イエス·キリストでございます。
主の公現の福音を思い出してください。 東方博士が何の贈り物を救い主に差し上げたんですか。 黄金、乳香、没薬を差し上げたんですね。
それでは、私たちもいらっしゃるイエス様に東方博士のように同じく黄金、乳香、没薬を差し上げなければなりませんか? 
でも、それは高いです。ちなみにお金がありません。 そしてお葬ぎのミサの時にするのをどうして差し上げないといけないんですか?
単刀直入に言えば、私たちがいらっしゃる救い主に差し上げる贈り物は、すなわち悔い改めと反省です。それで、待降節が始まる今日から、司祭はミサの時に紫色の祭服を着ます。 私がかっこよく見せるために、 着ている訳じゃないんです。 紫色の祭服は悔い改めと反省の意味があるからです。
司祭がミサの時に紫色の祭服を着たことで、私たちが救い主に差し上げるべきプレゼントを忘れるな、という意味でこのように着るのです。
今日の待降節第一主日の福音の核心は何でしょうか? まさに私たちが悔い改めて反省しなければならないということです。
つまり、イエス様が再びいらっしゃるまで私たちが備えなければならない態度は、過去の誤った習慣から抜け出し、新しい習慣、すなわちイエス様が教えてくださった掟どおりに生きることです。
それでは、イエス様が教えてくださった掟どおりに生きるものとは何でしょうか。 それは、自分を飾らずに生きる人生です。 自分を包み隠さず神様が作ってくださった通りにお互い愛しながら生きることです。 神様が私たちを最初に作ってくださった時、間違ってお作りましたか? そうじゃないでしょう? ところが、私たちはしばしば自分を飾り付けて包装しようとします。 神様が一番嫌うのが、まさに偽善です。
自分が他の人にまるでいい人のように見える必要がありますか? 神様は私たちについて全部ご存知です。ですが、私たちはなぜ自分を飾るのか、あるいは包装するのかよくわかりません。
今回の待降節の間、果たしてどれだけ自分を包み隠して生きているのか、それについて反省して悔い改めてほしいです。 他人にありのままの自分をどれだけ見せられずに生きているのか反省する時期になってほしいです。 そしてミサ前に告解所に入って来てわが主イエスキリストがお作りになった赦しの秘跡を通して罪を赦され、すぐいらっしゃるイエス様を嬉しく迎えてほしいです。
まさにこのような態度が、新しい一年、待降節を始めるキリスト信者たちの正しい態度ではないかと思いますが、皆さんは果たしてどう思いますか?
つまり、今回の待降節の間、自分を無理やり飾らず、あるいは包装せずに神様が作ってくださったとおりに、ありのままを生きていくように私たちみんな努力してみましょう。 アーメン、しばらく黙想しましょう。

오늘부터 새해가 시작됩니다. 여러분, 새해 복많이 받으세요. 
대림시기라고 하죠. 무엇을 기다린다? 누구를 기다린다? 그리운 내 사랑하는 님을 기다리죠? 그 님이 누구예요? 네 바로 구세주 예수 그리스도이시죠. 
주님 공현 대축일 복음을 떠올려 보세요. 동방박사가 무슨 선물을 구세주께 드렸어요? 황금 유향 몰약을 드렸죠. 
그럼 우리도 오시는 예수님에게 동방박사들처럼 똑같이 황금 유향 몰약을 드려야 할까요? 
비싸요. 돈 없어요. 그리고 장례미사 때 하는 걸 왜 드려야 하죠? 
단도직입적으로 말하면 우리가 오시는 구세주께 드리는 선물은 다름 아닌 회개와 속죄입니다. 우리가 드려야 할 선물은 바로 회개와 속죄예요. 그래서 대림시기가 시작되는 오늘부터 신부는 미사 때 보라색 제의를 입어요. 그냥 제가 잘생겨 보이려고 입는 게 아니죠. 보라색 제의의 뜻은 회개와 속죄의 뜻이 있습니다. 
사제가 미사 때에 보라색 제의를 입음으로써 우리가 구세주께 드려야 할 선물을 잊어 버리지 마라는 뜻에서 이렇게 입는 것입니다. 
오늘 대림 제 1주일 복음 말씀의 핵심이 뭐죠? 바로 우리가 회개하고 속죄해야 한다는 것입니다. 
한마디로 말하면 예수님이 다시 오실 때까지 우리가 갖추어야 할 태도는 과거의 잘못된 습관에서 벗어나 새로운 습관 즉 예수님께서 가르쳐 주신 계명대로 사는 것입니다. 
그럼 예수님께서 가르쳐 주신 규칙대로 사는 것은 무엇인가요? 그것은 자신을 꾸미지 않고 사는 삶입니다. 자신을 숨기지 않고 하느님이 만들어 주신대로 서로 사랑하며 사는 것입니다. 하느님이 우리를 처음 만들어 주셨을 때 잘못 만드셨나요? 그렇지 않죠? 그런데 우리는 종종 자신을 꾸미고 포장하려고 해요. 하느님이 제일 싫어하는 것이 바로 위선입니다. 
자기가 남들에게 마치 좋은 사람인 것처럼 보일 필요가 있겠습니까? 하느님께서는 다 아실텐데 왜 스스로를 꾸미는 지 잘 모르겠습니다. 
이번 대림시기 동안 과연 얼마나 내가 나 스스로를 포장하고 사는 지 그것에 대해 반성하고 회개하였으면 좋겠습니다. 다른 사람들에게 있는 그대로의 나를 얼마나 보여 주지 못하고 살고 있는지 반성해 보는 시기가 되었으면 좋겠습니다. 그리고 나서 미사 전에 고해소에 들어와 우리 주 예수 그리스도께서 만드신 고해성사를 통해 죄를 용서받고, 곧 오시는 예수님을 기쁘게 맞이하였으면 좋겠습니다. 
바로 이런 태도가 새로운 한 해, 대림절을 시작하는 그리스도 신자들의 올바른 태도가 아닐까 하고 생각하는데 여러분은 과연 어떻게 생각하십니까? 
다시 말해, 이번 대림절 동안 스스로를 억지로 꾸미지 않고, 포장하지 않고 하느님께서 만들어 주신 대로 있는 그대로 살아가도록 우리 모두 노력해 봅시다. 아멘. 잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年11月28日 日曜日 教会学校のお説教

皆さん、久しぶりですね。また1ヶ月ぶりに会いましたね。元気ですか。神父様も元気ですよ。
痛くないで、特にコロナウィルスまだひどく流行してるので、かからないように気をつけてほしいです。最近は10代、20代の若者がコロナでたくさんかかるんだって。日本でも若者が路上で突然倒れただって。マスコミではアナウンスやってないけど。でも本当にコロナ気をつけてね。
誰がコロナにかかったかどうか分からなくなってしまったから。だから、うちのお友だちよ、マスクちゃんとしてください。マスクが今の状況で唯一の対策だから。
さて、今神父様は何の色の祭服を着ました?
そう。紫色だね。今日から教会のカレンダーで新年が始まりましたよ。去年はB年、今年(今日から)はC年だそうです。だから、皆さんに神父様は新年の挨拶をしますね。
皆さん、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今日のミサから待降節です。待降節は2000年前に人になっていらっしゃった救い主イエス様のお誕生日を待ちながら、イエス様に何のプレゼントを差し上げたらいいのか悩む時期だし、そして後日神の子、イエス様が栄光な姿で私たちにまた再びいらっしゃることを謙遜な姿で待つことですよ。
だから、今日の福音のみことばで聞いたように、私たちがまた再びいらっしゃるイエス様を迎えるために私たちが持たなければならない態度は何なのかについて今日の福音のみことばは私たちに教えてくださいましたよ。
それは、簡単に言えば、悔い改めと反省です。
だから、うちの教会学校のお友だちは待降節の間に自分がいらっしゃるイエス様にどんなプレゼントを差し上げたらいいのかについて考えてみる時期ですよ。イエス様は、うちの教会学校のお友だちが父である神様がお作りになったようにありのままの姿がよっぽど好きですよ。だから、うちのお友だちが神様が作ってくださったとおりに、ありのままに生きず、嘘で自分を企んで生きているのではないか、今回の待降節によく反省してほしいです。
反省したら来月の教会学校のゆるしの秘跡の日に教会に来てイエス様からゆるしの秘跡を受けてほしいです。皆さん、できますよね?
それでは、神父様は皆さんを信じます。皆さんがちゃんと反省して悔い改めてイエス様からちゃんと赦され、いらっしゃるイエス様を喜んで迎えてほしいです。以上です。しばらく黙想しましょう。

 

 

 

 

2021年11月27日 土曜日 年間第34土曜日              2021年のB年も最後のお説教

今週の朗読のみことばまで、ダニエルの預言を聞きました。 その中で、四頭の大きなの獣の正体は 果たして何だったでしょうか? 聖書学者たちは、この四頭の大きな獣は他でもなく、当時のユダヤを攻撃したメデ、バビロニア、ペルシャ、ギリシアだそうです。

もちろん、この四つの国がユダヤを侵略して土地を奪い、ユダヤの宗教と文化をなくすために残酷な方法をたくさん使いました。 まるで日本が帝国主義時代に韓国と東アジアを侵略し、残酷な方法で彼らを苦しめた時を思い出します。

でも、そのようなユダヤの民に神様は約束しました。 神の国の裁判が始まれば、ユダヤを侵略した国が逆に完全に滅ぶことななると。

誰かを侵略して苦しめた国々は、極めて偉大で神聖な王によって完全に滅ぼされるだろうという今日のダニエルの預言でした。

そして今日の福音のみことばで、救い主イエス·キリストは、私たちの魂を苦しめる悪魔に対抗し、世の中の誘惑と心配に、私たちの心が弱くならないように注意を呼びかけました。 同時に、このような誘惑と世の中の憂いから解放されるのは、いつも目を覚まして祈るだけだとおっしゃいました。

教会のカレンダーで1年の最後の日である今日、自分は今年1年間、神様にどれほど多くの恵みを受けて生きてきたかを振り返り、神様に無限に感謝する日として過ごしてほしいです。 

2021年、B年の最後の説教でした。 しばらく黙想しましょう。

 

오늘 독서 말씀까지 이번 주간 내내 우리는 다니엘 서의 말씀을 들었습니다. 그 중에서 거대한 네 마리의 짐승의 정체는 과연 무엇이었을까요? 성서학자들은 이 네 마리의 짐승들이란 다름아닌 당시 유대를 공격했던 메대, 바빌로니아, 페르시아, 그리스 라고 합니다. 

물론 이 네 나라가 유대를 침략하여 땅을 빼앗고 유대의 종교와 문화를 없애기 위해 잔혹한 방법을 많이 사용했었죠. 마치 일본이 제국주의 시대에 한국과 동아시아를 침략하여 잔혹한 방법으로 그들을 괴롭히던 때가 생각이 납니다. 

하지만 그러한 유대 백성들에게 하느님께서는 약속하셨습니다. 하늘나라 재판이 시작되면 유대를 침략했던 나라가 거꾸로 완전히 멸망하게 될 것이라고. 

누군가를 침략하고 괴롭혔던 나라들은 지극히 위대하고 거룩하신 왕에 의해 완전히 멸망하게 될 것이라는 오늘의 다니엘서의 말씀이었습니다. 

그리고 오늘 복음 말씀에서 구세주 예

수 그리스도께서는 우리 영혼을 괴롭히는 악마에 대항하여 세상의 유혹과 걱정에 우리 마음이 너무 약해지지 않도록 주의를 당부하셨습니다. 동시에 이러한 유혹과 세상의 근심으로부터 해방될 수 있는 것은 늘 깨어 기도하는 것 뿐이라고 말씀하셨습니다. 

교회 달력으로 한 해의 마지막 날인 오늘, 나는 올 한 해 동안 하느님께 얼마나 많은 은총을 받고 살아 왔는지 돌아보며 하느님께 무한히 감사 드리는 날로 지냈으면 합니다만. 

 

2021년 나해 마지막 강론이었습니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年11月24日水曜日  ベトナム教会の殉教聖人の聖アンデレ·ジュン·ラク司祭と同志殉教者の記念日 お説教

今日はベトナム教会の殉教聖人の聖アンデレ·ジュン·ラク司祭と同志殉教者の記念日です。
アンデレ·ジュン·ラク司祭は1785年から1839年まで生きられました。
ベトナム教会は1533年にカトリック教会が伝われました。 そして1625年から1886年まで53回ほど、カトリック教会に対する迫害があったそうです。 当時殉教した殉教者たちは約33万人だったそうです。
聖アンデレ·ジュン·ラク司祭は1785年、貧しい家で生まれました。 司祭の叙階の後、ベトナムの様々な地域に通い、頑張って宣教したそうです。
そして捕まり、1839年に首を切られて殉教したそうです。 その方は同志殉教者の117名の殉教者たちと共に1888年6月19日に教皇ヨハネ·パウロ2世によって聖人になりました。
私もベトナム教会の聖人たちについて知りませんでしたが、今回に調べてみることになりました。
イエス様は今日の福音のみことばでおっしゃいましたね。 イエス様あなたご自分のため迫害を受ける時が来ると。 さらには、自分と最も親しい両親、兄弟、友人、親戚にまで告発されるだろうと。 どんな方法を使ってでも私たちをいじめることになるとおっしゃいました。
でも、イエス様は私たちに対するそんな攻撃に対して抵抗する武器をくださいました。 それは、いかなる反対者も対抗も反論できないような言葉と知恵をくれました。 そして永遠の命を許してくださいました。
どんな反対者も反論できないような言葉と知恵、これはこの世で生きていくために私たちに力を与えてくださったと思います。 そして殉教された時は永遠に神の国で生きることができるように神の国の命まで喜んで許したと、私ははっきり信じて確信します。
だからキリスト信者の皆さん、神様のこのような愛と配慮を信じて今現在に日本政府が自分の国民にやっていることを恐れず強く批判してください。 わが主イエス様が今日の福音でおっしゃったように、私たちにこのようなプレゼントをくださったからです。 アーメン、しばらく黙想しましょう。

오늘은 베트남 교회의 순교 성인이신 성 안드레아 둥락 사제와 동료 순교자들 기념일입니다.
안드레아 둥락 사제는 1785년부터 1839년 까지 사셨습니다.
베트남 교회는 1533년에 천주교가 전해졌습니다. 그리고 1625년부터 1886년 까지 53회 정도 천주교에 대한 박해가 있었다고 합니다. 그 때 순교한 순교자들이 약 33만명 정도라고 합니다.
성 안드레아 둥락 사제는 1785년 가난한 집안에서 태어나셨습니다. 사제 서품 후 베트남의 여러 지역을 다니시며 열정적으로 선교하셨다고 합니다.
그리고 잡히시어 1839년에 목이 잘리시어 순교하셨다고 합니다. 그분은 동료 117명의 순교자들과 함께 1888년 6월 19일에 교황 요한 바오로 2세에 의해 성인이 되셨습니다.
저도 베트남 교회의 성인들에 대해 몰랐는데 이번 기회에 찾아 보게 되었습니다.
예수님께서는 오늘 복음 말씀에서 말씀하셨죠. 당신 때문에 박해를 받을 때가 올 것이라고. 심지어 자기와 가장 친한 부모, 형제, 친구, 친척들이 고발할 것이라고. 어떤 방법을 써서라도 우리를 괴롭히게 될 것이라고 하셨습니다.
하지만 예수님께서는 우리에 대한 그런 공격에 대해 저항할 무기를 주셨습니다. 그것은 어떠한 적대자도 맞서거나 반박할 수 없는 언변과 지혜를 주셨습니다. 그리고 영원한 생명을 허락하셨습니다.
어떠한 적대자도 반박할 수 없는 언변과 지혜, 이것은 이 세상에서 살아가도록 우리에게 힘을 주신 것이라고 생각합니다. 그리고 순교를 당했을 때는 영원히 하늘나라에서 살 수 있도록 하늘나라의 생명까지 기꺼이 허락하신 것이라고 저는 굳게 믿고 확신합니다.
그러므로 그리스도 신자 여러분, 하느님의 이와 같은 사랑과 배려를 믿고 지금 일본 정부가 자기 나라 국민들에게 하고 있는 일에 대해 두려워 하지 말고 강하게 비판하시길 바랍니다. 우리 주 예수님께서 오늘 복음 말씀에서 말씀하신 것처럼 우리에게 이러한 선물을 주셨기 때문입니다. 아멘. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

交通アクセス

JR森林公園駅から、徒歩約15分  

JR新札幌駅 ・ 地下鉄新さっぽろ駅から、徒歩約20分

厚別中学校前 (中央バス 小野幌線)から、徒歩約3分

 

お知らせ

小野幌教会の鐘の音

2022年1月1日神の母聖マリアの祝日 ミサ

2022年1月2日日曜日 主の公現(祭日)ミサ