2021年8月1日日曜日 年間第18主日 お説教

今日は朗読と福音のみことばの核心メッセージを単刀直入に申し上げます。
わがカトリック教会の信者たちが迎えるご聖体は、つまり、イエス·キリストの御体だということです。 そして、そのご聖体は、私たちを永遠に生きらせてくれる命の糧だということです。
これについて疑う信者たちがいますか。 もちろん建前では誰もいないと言うでしょう。
しかし、本当に皆さんがご聖体を生きておられるイエス·キリストと信じるか、そうでないかは、皆さんの行動の結果から分かります。
例えば、皆さんが他人に怒って、自分が悪いと言わずに他人だけが悪いと言ったり、自ら責任を負わずに他人にだけ責任を負わせようとしたり、他人に対して余計なうわさをまき、その人の前ではほめて笑顔をするんですが、いざその人がいない所では陰口をたたえているとすれば、それは皆さんがご聖体を迎えていますが、決してご聖体をイエス·キリストとして信じていないという証です。
カトリック教会の信者たちは、誰でもミサの時にご聖体を迎えているにもかかわらず、たびたびそのような行動をしているなら、それはイエス様に怒って、自分が悪いと言わずにイエス様だけが悪いと言ったり、イエス様に対して余計なうわさを流し、イエス様に対して陰口をたたいているのと同じだということです。
今日の第2朗読で使徒パウロは信者たちに何とおっしゃいましたか。
その方のお言葉を一言で要約すると、ご聖体を迎えた信者たちは、過去のそのような間違った行動習慣を捨て、ご聖体を迎えた人らしく相手を尊重し、生きなさいということです。
だから、(       )教会の信者の皆さん、ご聖体を迎えた人らしくお互いを信じ、尊重し合いましょう。
今日の福音のみことばで群衆がイエス様に何と聞きましたか? 「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」と聞きました。 イエス様は何とお答えになりましたか。 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とおっしゃいました。 私はもっと具体的に申し上げます。 神の業はご聖体を迎えた人々を信じ、お互いに尊重し合うことだと思います。

今日の朗読と福音のみことばの核心メッセージでした。しばらく黙想しましょう。

오늘 독서와 복음 말씀의 핵심 메시지를 단도직입적으로 말씀드리겠습니다. 
우리 가톨릭 교회 신자들이 모시는 성체는 곧 예수 그리스도의 거룩한 몸이라는 것입니다. 그리고 그 성체는 우리를 영원히 살게 해주는 생명의 양식이라는 것입니다. 
이에 대해 의심하는 신자들이 있습니까? 물론 겉으로는 아무도 없다고 할 것입니다. 
그러나 진짜로 여러분들이 성체를 살아 계신 예수 그리스도로 믿느냐 그렇지 않느냐 하는 것은 여러분의 행동의 결과를 보고 알 수 있습니다. 
예를 들면, 여러분이 여전히 자주 분노하고, 스스로를 반성하기 보다 남의 잘못만 보고 남의 탓만 하고, 스스로 책임을 지지 않고 남에게만 책임을 물리려 하거나, 타인에 대해 쓸데없는 헛소문을  퍼뜨리고, 그 사람 앞에서는 칭찬하고 미소를 짓지만 그 사람이 없는 자리에서 뒷담화를 자주 하고 있다면 그것은 여러분은 성체를 모시고 있지만 결코 성체를 예수 그리스도로 믿지 않고 있다는 증거입니다. 
가톨릭 교회 신자들은 누구나 미사 때에 성체를 모시고 있는데도 불구하고 자주 그러한 행동을 하고 있다면 그것은 다름 아닌 예수님에게 화를 내고, 예수님 탓을 하고, 예수님에 대해 쓸데없는 헛소문을 퍼뜨리고, 예수님에 대해 뒷담화를 하고 있는 것과 같다는 것입니다. 
오늘 제2독서에서 사도 바오로는 신자들에게 뭐라고 말씀하셨습니까? 
그분의 말씀을 한 마디로 요약하자면, 성체를 모신 신자들은 과거의 그런 잘못된 행동 습관을 버리고 성체를 모신 사람 답게 거룩하게 상대방을 존중하며 살아라는 것입니다. 
그러니까, (    ) 성당 신자 여러분, 성체를 모신 사람 답게 거룩하게 서로를 믿어 주고 존중해 줍시다. 
오늘 복음 말씀에서 사람들이 예수님에게 뭐라고 물었습니까? "하느님의 일을 하려면 무엇을 해야 되냐"고 물었지요. 예수님께서 뭐라고 대답하셨습니까? ""하느님의 일은 그분께서 보내신 이를 믿는 것"이라고 하셨죠. 저는 좀 더 구체적으로 말씀 드리겠습니다. 하느님의 일은 성체를 모신 이들을 믿어 주고 거룩하게 서로를 존중해 주는 것이라고 생각합니다. 

오늘 독서와 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다. 잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年8月2日月曜日 葬儀ミサのお説教

まず、故(      )様の御せいきょに際し、カトリック小野幌、大麻、江別教会を代表致しまして心よりお悔やみ申し上げます。

私たちの人生の目的についてカトリック教会はこのように教えます。
「人が世の中に生まれた理由は人が宇宙と世の中を創造された神様を知り、あの方を敬い、自分の魂を救うために世の中に生まれた」と教えます。
そして「人が死んだらどうなるか」に対する質問に対する答えについてカトリック教会はこのように教えます。
人が死んだらそれぞれ神の前に呼び出されて裁きを受けます。世の中で生きていた時行った自分のすべての行為について神の前で裁きを受けます。これをカトリック教会では「私審判」だそうです。それでその人の行為の結果によって天国、煉獄、地獄の中の一つの所へ行くことになります。
亡くなった愛する(        )さんもこの3つの所の中の一つに間違いなくいらっしゃったはずです。ただ世の中に生きている私たちは愛する(        )さんがどちらにいらっしゃるかどうか分かりません。そのためにカトリック教会は私たちより先に亡くなった魂のために祈るように教えています。神の憐みと愛でこの世に生きていた時の罪を赦され、神と和解して天国の喜びを受けられるように故人のために祈ろうと要請しています。
だから、今日、葬儀ミサを通して捧げられる故(       )様の永遠の安息のためにこのミサに一緒にしている私たちみんな真心を込めて心を尽くして故人のために祈らなければなりません。

 

故人の遺族たちが愛する故人が神の憐みと愛で永遠の命を受けられるようにこのミサの中にいっしょうけんめい祈りましょう。

 

 

 

 

2021年8月3日火曜日 聖ヨハネ・マリア・ビアンネ神父の記念日 - 1 -

今日の福音のみことばを簡単にもう一度説明すると、次のようです。
イエス様がしつこくねだるある異邦人の女に、「今イスラエルの人々にあげるパンも足りないのに、あなたがた異邦人たちにあげるものはない」と断ると、その異邦人の女は、「それでは、主よ、そのパンくずでもください」と答えました。 イエス様はその異邦人の女の信仰を見て、その異邦人の女の娘を治してくださいました。
今日の福音のみことばの核心メッセージは、すなわち、奇跡はただ出てくるものではありません。 必ず信仰が前提になってこそ奇跡が生じるということです。
我々がいくらご聖体を迎えたとしても、ご聖体の中に生きておられるイエス様に対する信仰がなければ、パン一切れ食べるのと同じだという意味でもあります。 つまり、信仰があってこそ人生の変化が生まれるという意味です。
ご聖体の中に生きておられるイエス様に対する強い信仰を持ってください。 そしてそのイエス様に愛してると告白してください。 ご聖体と御血が司祭の手によって持ち上げられる時、このように心の中で告白してください。 「私の主よ、私の救い主よ!」と。
そしてついに私の歯に噛まれて、私の体の中に入ってくるイエス様へ向けて、愛に満ちた心で一日を嬉しく生きてください。
一般の人々が死んだら、自分について証言してくれて弁護してくれる人がいません。 しかし、わがキリスト者たち、特にカトリック教会の信者たちは、少なくとも一人くらいはいます。 まさに人になられた神の子イエス·キリストでございます。
私たちがイエス·キリストを主として仕える理由がまさにここにあります。 そして、わがカトリック教会の信者になった理由が、まさにここにあるのです。 だから喜ばない理由はどこにありますか。 感謝しない理由がどこにありますか。

しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀을 쉽게 다시 한번 풀이해 보면 다음과 같습니다. 
예수님이 귀찮게 졸라대는 한 이방인 여자에게 "야, 지금 이스라엘 사람들에게 줄 빵도 부족한데 니네 이방인들에게 줄 건 없다"고 거절하시자, 그 이방인 여자는 "그럼 주님, 그 빵 부스러기라도 주세요"라고 대답하였습니다. 예수님은 그 이방인 여자의 믿음을 보시고 대견하게 바라보시며 그 이방인 여자의 딸을 낫게 해주셨습니다. 
오늘 복음 말씀의 핵심 메시지는 다름아닌 기적은 그냥 나오는 것이 아닌 것입니다. 반드시 믿음이 전제 되어야 기적이 이루어진다는 것이죠. 
우리가 백날 성체를 모신 다고 해봐야 성체 안에 살아계신 예수님에 대한 믿음이 없으면 그냥 빵 한 조각 먹는 것과 차이가 없다는 뜻이기도 합니다. 즉, 믿음이 있어야 우리 삶에 변화가 생긴다는 뜻입니다. 
성체 안에 살아 계신 예수님에 대한 강한 믿음을 지니시길 바랍니다. 그리고 그 예수님에게 사랑한다고 고백하시길 바랍니다. 성체와 성혈이 사제의 손에 의해 들어 올려 졌을 때 이렇게 마음 속으로 고백하십시오. "나의 주님, 나의 구세주여!" 라고. 
그리고 마침내 내 이빨에 씹혀 내 몸 속으로 들어오신 예수님을 향해 사랑 가득한 마음으로 하루를 기쁘게 살아 가시길 바랍니다. 
일반 사람들이 죽으면 자기에 대해 증언해 주고 변호해 주는 사람이 없어요. 하지만 우리 그리스도인들, 특히 가톨릭 교회 신자들은 적어도 한 명 정도는 있습니다. 바로 사람이 되신 하느님의 아들 예수 그리스도이십니다.
우리가 예수 그리스도를 주님으로 섬기는 이유가 바로 여기에 있습니다. 그리고 우리가 가톨릭 교회 신자가 된 이유가 바로 여기에 있는 것입니다. 그러니 기뻐하지 않을 이유가 어디에 있겠습니까? 감사하지 않을 이유가 어디에 있겠습니까? 

잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年8月4日水曜日 聖ヨハネ・マリア・ビアンネ神父の記念日 - 2 -

イエス様が、明らかなことは、あの方はイスラエルの民のために来られたということです。 これは事実です。 神様が彼らの先祖たちを過去のエジプト奴隷の生活から救ってくださった歴史的な事実のためです。 神様はメシア、救い主、領導者としてイスラエルの民を奴隷の生活から救ってくださったからです。
反面、異邦人たち、ユダヤ人の立場から見た異邦人たちは神に仕えていなかったため、本来から彼らは異邦人を犬や豚として低く扱っていたのです。
今日の朗読と福音のみことばで、私たちは衝撃を受けたことでしょう。
なぜなら、イスラエルの民は、エジプトを脱出してから神様が施してくださった数多くの奇跡を見たにもかかわらず、彼らは約束の地に住む巨人族のために神の力を信じることができなかったのです。
一方、今日の福音のみことばでカナンの女はイエス様が行った奇跡を見て全面的にイエス様を信頼したと思います。 イエス様が行った奇跡を見ていなかったら、犬扱いされても今日の福音のような信仰を見せることができなかったからです。
つまり、ある人々は神様の奇跡を体験したにもかかわらず、神様に対する信仰がなくて救われなかったけど、ある人は神の子の奇跡を見て、どんな暴言にも揺れない信仰を見せ、ついに救われたのです。
皆さん、私たちも同じです。 私たちはミサという大きな奇跡を、ミサに与るたびに体験しています。 それでは、私たちが持つべき姿勢は何ですか。 今日の朗読のみことばに出てきたイスラエルの民の信仰でしょうか。 それとも今日の福音のみことばで 見せてくれたカナンの女の信仰ですか?
本日、全世界の小教区の神父たちの守護聖人である聖ヨハネ·マリア·ビアンネ神父様の祝日に、ビアンネ神父様もこのように自分の教会の信者たちにおっしゃいました。
「ご聖体を迎えてください。 イエス様に行ってください。 皆さんがイエス様のための人生を生きてほしいです。 私たちもあの方のおかげで暮らしています。 忙しすぎるなんて言わないでください。」

しばらく黙想しましょう。

예수님께서 분명한 것은 그분은 이스라엘 백성들을 위해서 오셨다는 것입니다. 이것은 사실입니다. 하느님께서 그들의 선조들을 과거 이집트 노예 생활에서 구원해 주신 역사적 사실 때문입니다. 하느님께서는 메시아, 구세주, 영도자로서 이스라엘 백성들을 노예 생활로부터 구해 주셨기 때문입니다.
반면에 이방인들, 유대인의 입장에서 본 이방인들은 하느님을 섬기지 않았기 때문에 본래부터 그들은 이방인들을 개나 돼지로 낮게 취급하였던 것입니다.
오늘 독서와 복음 말씀에서 우리는 쉽게 충격을 받았을 것입니다.
왜냐하면 독서 말씀에서는 이스라엘 백성은 그들이 이집트를 탈출하면서 부터 하느님께서 베풀어 주셨던 수많은 기적들을 보았음에도 불구하고 그들은 약속의 땅에 사는 거인족들 때문에 하느님의 힘을 믿지 못하였던 것입니다.
반면에 오늘 복음 말씀에서 가나안 여자는 예수님께서 행하신 기적들을 보고 전적으로 예수님을 신뢰하였다고 생각합니다. 예수님이 행하신 기적을 보지 않았더라면 개 취급을 받고도 오늘 복음과 같은 믿음을 보여 줄 수 없었기 때문입니다.
즉, 어떤 사람들은 하느님의 기적을 체험했음에도 불구하고 하느님께 대한 믿음이 없어서 구원받지 못했지만, 어떤 사람은 하느님의 아들의 기적을 보고 어떤 폭언에도 흔들리지 않는 믿음을 보여 주어 마침내 구원 받았던 것입니다.

자, 여러분, 우리도 마찬가지입니다. 우리는 미사라는 큰 기적을 미사에 참례할 때마다 체험하고 있습니다. 자, 그럼 우리가 가져야 할 자세는 무엇이겠습니까? 오늘 독서 말씀에 나온 이스라엘 백성들의 믿음이겠습니까? 아니면 오늘 복음 말씀에서 보여준 가나안 여자의 믿음이겠습니까?
오늘 전세계 모든 본당 신부의 주보 성인이신 성 요한 마리아 비안네 신부님의 축일에 비안네 신부님도 이렇게 본당 신자들에게 말씀하셨습니다.
"성체를 모시십시오. 예수님께로 가십시오. 여러분이 예수님을 위한 삶을 살기 바랍니다. 우리도 그분 덕택에 살고 있습니다. 너무 바쁘다고 말하지 마십시오."
잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月6日金曜日 主の変容の祝日 お説教

今日は、主の変容の祝日です。
救い主神の子イエス様が、あなたご自身の本来の姿を弟子たちに見せてくださったことを記念する祝日です。
皆さんは、神の姿を見たことがありますか? 神の子の姿を見たことがありますか。
多分、誰もいないと言うでしょう。
しかし、少なくとも皆さんはパンとぶどう酒の姿でいらっしゃる神の子にお会いしたことがありますよね?
そうやってでも神の子の姿を見ることができるから、どれほど豊かな祝福でしょうか。 さらに、神の子を丸ごと食べるじゃないですか。 だから、神の子と一心同体になりますよね?
昔、イエス様の姿を見た弟子たちは、私たちのような恵みを受けることができませんでした。 だから、二人の中で誰がもっと幸せだと言えますか。 当然私たちです。そうでしょう?
したがって、神の子を丸ごと食べ、神の国を私の体の中に持ってきたことに対して無条件感謝し、喜ぶべきではありませんか? そしてこの恵みをまだ受けてできていない人々にも積極的に伝えるべきではないでしょうか。
昔、神の子は弟子たちに黙れとおっしゃいましたが、今の状況は違います。 皆さんの兄弟、姉妹、家族、親戚、友達に積極的に話してください。 私と一緒に神の子に一緒に行ってみないかと。

以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘은 주 예수님의 거룩한 변모 축일입니다.
구세주 하느님의 아들 예수님께서 당신의 본래 모습을 제자들에게 보여 주신 것을 기념하는 축일입니다.
여러분은 하느님의 모습을 보신 적이 있습니까? 하느님의 아들의 모습을 본 적이 있으세요?
아마도 아무도 없다고 말할 것입니다.
하지만, 적어도 여러분은 빵과 포도주의 모습으로 오시는 하느님의 아들은 만난적이 있으시죠?
그렇게라도 하느님의 아들의 모습을 볼 수 있으니 얼마나 큰 축복이겠습니까? 심지어 하느님의 아들을 통째로 먹지 않습니까? 그리하여 하느님의 아들과 일심동체가 되지 않습니까?
그 옛날 예수님의 모습을 잠깐 본 제자들은 우리와 같은 은총을 누려 보지 못하였습니다. 그러니 둘 중에 누가 더 행복하다고 말할 수 있습니까? 당연히 우리입니다. 그죠?
그러므로 하느님의 아들을 통째로 먹어 하느님의 나라를 내 몸 안에 갖고 온 것에 대해 무한히 감사하고 기뻐해야 하지 않겠습니까? 그리고 이 은총을 아직 누리지 못하고 있는 다른 사람들에게도 적극적으로 전해야 하지 않겠습니까?
그 옛날 하느님의 아들께서는 제자들에게 입 다물어라고 말씀하셨지만, 지금은 다릅니다. 여러분의 형제 자매 가족 친척 친구들에게 적극적으로 말하십시오. 나와 함께 하느님의 아들에게로 같이 가보지 않겠느냐고.

이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月8日 日曜日 年間第19主日 お説教

最近主日のたびにずっと強調されるみことばはすなわち、命の糧であるご聖体です。
特に、ご聖体の秘跡は人が作ったものではなく、神の子が直接作ったものです。 今日の福音のみことばで、神の子イエス様は、あなたご自身を指して「命のパン、天から降って来た生きているパン」とおっしゃいました。 だからあなたご自身を直接食べる人々は死なずに永遠に生きるとおっしゃいました。
皆さん、ミサの中に聖別されるご聖体と御血に注目してください。 ミサの中に他の時は目を閉じて祈ることができるかもしれないけど、ミサの時に司祭がパンを聖別してぶどう酒を聖別し、そのご聖体と御血を持ち上げる時は絶対に目を閉じないで、頭を下げることなく、敬う心で眺めてください。 そして司祭がお礼をする時に初めて司祭と共にご聖体と御血についてお礼をしてください。
そしてご聖体を私の中に迎えた瞬間から、私自身は私自身ではなく、イエス様が私の中にいらっしゃったということをはっきり悟って、イエス様のようにではなく、イエス様になって生きなければならないということです。
イエス様が一番お上手なことが何かと言いますと、それは他でもなく、自分で責任を負われたことだと思います。 あなたご自身は罪がなかったにもかかわらず、人類のために人類が犯した罪に対して自分で責任を負われたのです。 だから皆さんもイエス様を迎えてから自分で兄弟姉妹に対して責任を負うようにしてください。 責任を負わない日本社会に対してこの時代に責任を持って行動するイエス様になってください.
そして、自分で勝手に兄弟姉妹を判断するようなことがないようにしてください。 自分の判断と行動がすべて正しいと思うことのないようにしてください. 「あの人だってそうだろう」と思い込んで判断することのないようにしてください。
また、カトリック教会の信者たちは、プロテスタント教会の信者たちより、ずっと恵まれた人たちです。 プロテスタント教会の信者たちは救いに招待されたかもしれまないけど、救いに確実な保証はありません。 なぜかというと、彼らにはご聖体の秘跡とゆるしの秘跡がないからです。 それで、彼らはイエス様のように生きるために頑張りますが、わがカトリック教会の信者たちは、イエス様のようにではなく、私たち一人一人がみんなイエス様になって、お互いにご飯になってあげなければならないということです。
お互いに命のご飯になってください。 だから命のご飯を食べたエリヤが力を得て四十日歩いていったように、私たちもお互いのご飯になって、私たちの兄弟姉妹が私たちの励ましと慰めの言葉のために力を得て、この苦しい日本社会でコロナという苦しみに耐えながら生きていけるように頑張ってください。
今日の第2朗読のみことばでおっしゃった使徒パウロのお言葉を私自分のの人生のモットーにして忘れないように毎日モーセの十戒のように覚えながら生きて行ってほしいです。 
そんなに長くもないですから。 今日から覚えてみるようにやってみてください。

以上です。しばらく黙想しましょう。

요즘 주일마다 계속 강조되고 있는 말씀은 다름 아닌 생명의 양식인 성체입니다. 
특히 성체성사는 사람이 만든 것이 아니라, 바로 하느님의 아들께서 직접 만드신 것입니다. 오늘 복음 말씀에서 하느님의 아들 예수님께서는 당신 자신을 가리켜 생명의 빵, 하늘에서 내려온 살아 있는 빵이라고 말씀하셨습니다. 그래서 당신 자신을 직접 먹는 사람들은 죽지 않고 영원히 살게 될 것이라고 말씀하셨습니다. 
여러분, 미사 중에 축성되는 성체와 성혈에 주목하십시오. 미사 중에 다른 때는 눈 감고 기도할 수 있다 하더라도 미사 중에 사제가 빵을 축성하고 포도주를 축성하고, 그 성체와 성혈을 들어 올리는 때에는 절대로 눈 감지 마시고 고개를 숙이지 마시고 공경하는 마음으로 바라보십시오. 그리고 사제가 예를 올릴 때 그 때에 비로소 사제와 함께 성체와 성혈에 대해 예를 올리십시오. 
그리고 성체를 내 안에 모신 순간부터 이제 나 자신은 나 자신이 아니라 예수님이 내 안에 오셨다는 것을 분명히 깨닫고 예수님처럼이 아니라, 예수님이 되어 살아가셔야 한다는 것입니다. 
예수님이 제일 잘 하신 것이 무엇인가 하면은 그것은 다름 아닌 스스로 책임을 지신 것이라고 생각합니다. 당신 자신은 죄가 없으셨음에도 불구하고 인류를 위해 인류가 지은 죄에 대해 스스로 책임을 지셨던 것입니다. 그러므로 여러분도 예수님을 모신 이후부터 스스로 형제 자매들에 대하여 책임을 지도록 하십시오. 책임을 지지 않는 일본 사회에 대하여 이 시대에 책임을 갖고 행동하는 예수님이 되십시오. 
그리고 스스로 자기 멋대로 형제 자매들을 판단하는 일이 없도록 하십시오. 자기가 하는 판단과 행동이 다 옳다고 여기는 일이 없도록 하십시오. '저 사람도 그럴 것이야'하고 짐작하여 판단하는 일이 없도록 하십시오. 
또, 가톨릭 교회 신자들은 개신교 신자들보다 훨씬 복이 많은 사람들입니다. 개신교 신자들은 구원에 초대는 받았을 지는 모르겠지만, 구원에 확실한 보증은 없습니다. 왜냐하면 그들에게는 성체성사와 고해성사가 없기 때문입니다. 그래서 그들은 예수님처럼 살기 위해 노력을 하겠지만, 우리 가톨릭 교회 신자들은 예수님처럼이 아니라, 우리 한명 한명이 모두 예수님이 되어 서로에게 밥이 되어 주어야 한다는 것입니다. 
서로에게 생명의 밥이 되어 주십시오. 그래서 생명의 밥을 먹은 엘리야가 힘을 얻어 사십일을 걸어간 것처럼, 우리도 서로에게 밥이 되어 우리의 말 한 마디로 우리의 형제 자매들이 우리의 격려와 위로의 말 때문에 힘을 얻어 이 힘든 일본 사회에서 코로나라는 고통을 견디며 살아갈 수 있도록 노력하십시오
오늘 제2독서 말씀에서 말씀하신 사도 바오로의 말씀을 내 인생의 모토로 삼아 잊어 버리지 않도록 매일 십계명처럼 외우며 살아가셨으면 좋겠습니다. 
그렇게 길지도 않으니까요. 오늘부터 외워 보도록 해 보세요.

이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

2021年8月9日月曜日 年間第19主日 お説教

今日の福音のみことばで、神の子のこの世に来られた目的が明らかになりました。 
それは十字架の死と復活です。 
父である神の計画は、神の子が人々に捕まって殺され、そして死に打ち勝ち、ついに勝利することだと言えます。 神の子はひたすら父である神の計画を実現させるためにこの世にいらっしゃったのです。
神の子の計画は、ひたすら父である神の命令に従うことでした。 イエス様にとって重要なことは、ひたすら父である神の命令に従うことでした。 その神の命令に従うため、エルサレムの神殿で福音を宣言するためには、神殿に入らなければならなかったんですよね? そうしてこそ、父である神の命令通りに福音を宣言できるからです。
だからイエス様は父である神様の命令に従うためにも神殿に入らなければならないのでした。 神殿に入るためには、まずイスラエルが定めた神殿税を出さなければならなかったのです。
たとえ、その神殿税が不正の象徴だったとしても。 不正を叱り、神の本来の望みを伝えるためにも、神の子は先に税金を納めて神殿に入らなければならなかったのです。 それは、神殿に入ってこそ、人々に神様の本来の望みについてちゃんと言うことができるからです。
今日の福音のみことばで忘れてはならないことは、私たちも人生において最も重要な目的を忘れてはならないということです。 
カトリック教会が教える要理の中で、最も優先的に教える要理が何かご存じですか。
それは人がこの世に生まれた目的という要理です。 
カトリック教会は次のように教えます。 
人がこの世に生まれた目的は何ですか? 
答えは、人間がこの世に生まれた目的は、神を知り、その方を敬い、自分の魂を救うためにこの世に生まれたということです。
いくら世の中がそして社会が混乱していても私たちはこの目的を忘れないで、力強くこの目的を達成するために頑張らなければなりません。 

 

今日は福音のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에서 하느님의 아들께서 이 세상에 오신 목적이 분명하게 드러났습니다. 
그것은 바로 십자가 죽음과 부활입니다. 
성부 하느님의 계획은 바로 성자가 사람들에게 잡혀서 죽임을 당하고 그리고 나서 죽음을 이기고 마침내 승리하는 것이라고 할 수 있습니다. 성자는 오로지 성부 하느님의 계획을 실현시키기 위해 이 세상에 오신 것이고요. 
성자의 계획은 오로지 성부 하느님의 명령을 따르는 것이었습니다. 예수님에게 있어서 중요한 것은 오로지 성부 하느님의 명령에 대하여 순종하는 것이었습니다. 그 하느님의 명령을 따르기 위해 성전에서 우선 복음을 선포하려면 성전에 들어가지 않으면 안되는 것이었죠? 그래야 성부 하느님의 명령 대로 복음을 선포할 수 있을테니까요. 
그러니까 예수님께서는 성부 하느님의 명령에 순종하기 위해서라도 성전에 들어가지 않으면 안되는 것이었습니다. 성전에 들어가기 위해서는 먼저 이스라엘이 정한 성전세를 내지 않으면 안되는 것이었고요. 
비록 그 성전세가 부정과 부패의 상징이었다고 하더라도. 부정과 부패를 야단 치고 하느님의 본래 의지를 전하기 위해서라도 성자께서는 먼저 세금을 내고 성전에 들어가셔야 했던 것입니다. 그것은 성전에 들어가야 사람들에게 하느님의 본래 뜻에 대해 제대로 말할 수 있기 때문이니까요.
오늘 복음 말씀에서 잊지 말아야 할 것은 우리도  인생에 있어서 가장 중요한 목적을 잊지 말아야 한다는 것입니다. 
가톨릭 교회가 가르치는 교리 중에 가장 우선적으로 가르치는 교리가 무엇인지 알고 계십니까? 
그것은 다름아닌 사람이 이 세상에 태어난 목적이란 교리입니다. 
가톨릭 교회는 다음과 같이 가르칩니다. 
사람이 이 세상에 태어난 목적이 무엇입니까? 
답은, 사람이 이 세상에 태어난 목적은 하느님을 알고 그분을 섬기며 자기 영혼을 구원하기 위하여 세상에 태어났다는 것입니다. 
아무리 세상이 그리고 사회가 혼란스럽다고 하더라도 우리는 이 목적을 잊어 버리지 말고 꿋꿋하게 이 목적을 달성하기 위해 노력해야 하겠습니다. 

 

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다. 잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年8月11日 水曜日 聖クララの記念日 お説教

イエス様は弟子たちに兄弟同士争いとか、ケンカや葛藤が起こった時、どのように和解しなければならないのかその方法について具体的に教えてくださいました
まず、葛藤が起こったその当事者を訪ねて話をしなければなりません。 彼の話を先に聞いてあげて共感してあげなければなりません。 それから自分の気持ちの状態も話してあげることで、相手が分かるようにしなければなりません。 つまり、先に、お互いにコミュニケーションがとられなければなりません。
二番目、自分だけの力だけで葛藤を解決することが難しいと思います。 そういう時は、諦めずに、積極的に他の人たちの助けを借りなければなりません。 相談の専門家の助けを受ければ受けるほどもっといいでしょう。
三番目、そしてこれだけでも足りないです。 信者たちは、特に教会の主任司祭に知らせて霊的なアドバイスも参考にしなければなりません。
最後に、イエス様が最もたくさん面倒を見てあげなければならない階層として徴税人、異邦人たちをおっしゃいました。
そして、葛藤が起きたその当事者を、まるで最もたくさんの努力を傾けて面倒を見なければならない人と思い、彼のために絶えず祈らなければなりません。
その祈りは一人でできますが、少なくとも2人以上の力を合わせて祈れば、2倍の効果が得られるそうです。 なぜかというと、2人や3人が集まって祈るところには、聖霊である主が一緒にいらっしゃるからです。
よろしでしょうか。今日の福音のみことばを現代の言葉で再解釈して申し上げました。
しばらく黙想しましょう。

예수님께서는 제자들에게 형제들간에 다툼이나 갈등이 났을 때 어떻게 화해해야 하는지 그 방법에 대해 구체적으로 가르쳐 주셨습니다.
먼저, 갈등이 일어난 그 당사자를 찾아가서 대화해야 합니다. 그의 이야기를 먼저 들어 주고 공감해 주어야 합니다. 그리고 나 자신의 심정도 이야기 함으로써 자신의 마음 상태도 상대방이 이해할 수 있도록 해 주어야 합니다. 즉, 먼저 서로 의사소통이 이루어져야 합니다.
둘째, 나만의 힘만으로 갈등을 해결하는 데 어려움이 있을 수 있습니다. 그럴 때에는 포기하지 말고 지체없이 다른 사람들의 도움을 받아야 합니다. 상담 전문가의 도움을 받으면 받을수록 더욱 좋겠죠.
셋째, 그리고 이것만으로도 부족합니다. 신자들은 특히 본당 신부에게 알려 본당 신부의 영적인 조언도 참고해야 합니다.
마지막으로, 예수님께서 가장 많이 돌보아 주어야 할 계층으로 세리, 이방인들을 말씀하셨습니다.
그래서 갈등이 일어난 그 당사자를 마치 가장 많이 노력을 들여 돌보아 주어야 할 사람으로 여겨 그를 위해 끊임없이 기도해 주어야 합니다.
그 기도는 혼자 해도 되지만, 적어도 두 명 이상 힘을 모아 기도하면 두 배의 효과를 이룰 수 있다고 합니다. 왜냐하면 두 명이나 세 명이 모여 기도하는 그 곳에는 바로 성령이신 주님께서 함께 계시기 때문입니다.
이해하시겠습니까? 오늘 복음 말씀을 현대의 말로 재해석하여 여러분에게 말씀 드렸습니다.
잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月13日 年間第19金曜日 お説教

今日の福音のみことばを隣人愛に変えればもっと分かりやすいです。 夫婦が神様が結んでくださったように、わが共同体のメンバーお互いもそれと同じだというわけです。 なぜなら、私たちみんなが洗礼の秘跡を受けて一つになったからです。 そのため、時々お互いの顔が見たくなくても、私たちは相変わらず神の一つの家族だということです。
すると、神の一つの家族の人々は、どのように接して生きなければなりませんか? そうですね。皆さんがよくご存知の通り、夫婦間の愛のようにお互いに大切にし、お互いに心配し、また過ちがあったら喜んでお互いに赦し合い、お互いに祈って生きなければならないということです。
ところが、わが共同体の中ではお互いに対面する時には笑顔で親切なふりをしますが、お互いに離れている時には自分が顔を見たくないその人の陰口をむやみに言う場合がよくあります。 そのために傷ついて二度と教会に来ない人々もたくさんいます。 これは日本の教会のどこに行っても同じです。
一体なぜそうしますか。 自分が他人にまるでいい人のように見せたいからですか。 その当事者の前で言えない内容があるなら、他人の前でも言わないでください。 陰口は最も悪い大罪です。 つまり、殺人罪ということです。
さぞかしフランシスコ教皇様もこのようなお話をされたほどです。
「陰口だけをたたかなくても、私たちは天国に行けます」と。
皆さんの中で今現在独身で住んでいる人々は、すでに天の国のために自分で結婚しなかった司祭、修道者たちのように隣人愛のために献身する準備をした人々だということです。 それでは、皆さんがしなければならないことは果たして何でしょうか。
はい、お互いに愛することです。 特に陰口はしないでください。  当事者の前で言いにくいことを、よそで親しい人々同士がこそこそと陰口を言わないようにしてください。 そして昨日の福音のみことばのように、神様は私たちの罪をすべて赦してくださいました。 そのように、私たちも自分に罪を犯した、簡単に言えば傷つけた他の兄弟姉妹の罪を寛大に赦してください。 なぜなら、我々も神様に私たちの罪を洗礼秘跡と赦しの秘跡を通してただで全部赦してもらったからです。
皆さんには十分できますよ。 なぜなら、皆さんそれぞれみんな神から愛される息子や娘たちだからです。
以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀을 이웃사랑으로 바꾸면 더 이해하기 쉽습니다. 부부가 하느님께서 맺어 주신 것처럼 우리 공동체 구성원 서로 서로도 그와 같다는 것입니다. 왜냐하면 우리 모두는 다 세례성사로 하나가 되었기 때문입니다. 그렇기 때문에 때때로 서로의 얼굴이 보고 싶지 않다고 하더라도 우리는 여전히 하느님 안의 한 가족이라는 것입니다.
그러면 하느님 안의 한 가족인 사람들은 어떻게 서로를 대하며 살아야 합니까? 그렇죠. 여러분이 잘 아시는 대로 부부간의 사랑처럼 서로 아껴주며, 서로 걱정해 주고 또 잘못이 있다면 기꺼이 서로 용서해 주고 서로 기도해 주며 살아야 한다는 것입니다.
그런데 우리 공동체 안에는 서로 대면했을 때에는 웃는 얼굴로 친절한 척 하지만, 서로 떨어져 있을 때에는 자기가 얼굴 보고 싶지 않은 그 사람의 험담을 마구 하는 경우가 종종 있습니다. 그것 때문에 상처 받아 다시는 교회에 오지 않는 이들도 많이 있구요. 이건 일본 교회 어디를 가도 다 있습니다.
도대체 왜 그러는지요? 자기가 남들에게 마치 좋은 사람인 것처럼 보이고 싶어서입니까? 그 당사자 앞에서 말할 수 없는 내용이 있다면 다른 사람들 앞에서도 말하지 마십시오. 험담은 가장 나쁜 대죄입니다. 살인죄라는 것입니다.
오죽하면 프란치스코 교황님께서 이런 말씀을 하셨겠습니까?
"뒷담화만 하지 않아도 우리는 천국에 갈 수 있습니다."
여러분들 중에 지금 현재 독신으로 살고 있는 사람들은 이미 하늘나라를 위하여 스스로 결혼하지 않은 사제, 수도자들처럼 이웃사랑을 위해 헌신하기로 준비된 사람들이라는 것입니다. 그렇다면 여러분이 해야 할 일이 과연 무엇이겠습니까?
네, 바로 서로 사랑하는 일입니다. 특히 험담하지 마세요.  당사자 앞에서 하기 어려운 말을 다른 곳에서 친한 사람들끼리 수군거리지 않도록 하세요. 그리고 어제 복음말씀처럼 하느님께서는 우리의 죄를 모두 용서해주셨습니다. 그런 것처럼 우리도 자신에게 죄를 지은, 쉽게 말해 상처를 입힌 다른 형제 자매의 죄를 너그럽게 용서하십시오. 왜냐하면 우리도 하느님께 우리의 죄를 세례성사와 고해성사를 통해 무상으로  다 용서받았기 때문입니다.
여러분은 할 수 있습니다. 왜냐하면 여러분 각자는 모두 하느님의 사랑받는 아들 딸이기 때문입니다.
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月15日 聖母の被昇天 お説教

今日はマリア様の被昇天の大祝日です。 マリア様が天に召されるようになった出来事の意味について簡単に申し上げますと、私たちもマリア様のように神様の計画、神様の望み、神様のみことばに従いながら生きれば、私たちもいつかはマリア様のように同じ栄えを受けられるという意味です。
ところで、その神の計画、神の望み、神のみことばとは、一体何でしょう?
それは使徒パウロがはっきり教えてくれました。 
特に、テサロニケ一。5章を読んでみてください。 使徒パウロは、神の望みについて明確に教えてくれました。
そのうち、いくつかの聖書の節を紹介したいと思います。
5章11節、「励まし合い、お互いの向上(こうじょう)に心がけなさい」、
5章12節、「主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ(おもんじ)、
5章13節、「愛をもって心から尊敬し、互いに平和に過ごしなさい」、
5章14節、「怠けて(なまけて)いる者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」、
5章15節、「誰も悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」、
そして私が大好きな聖書の節だけど、
16節から18節までのみことば、
「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト·イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
神の望みとはまさにこれです。 おそらく、マリア様は神の望みを最もよくご存じで、また弟子たちの中で最も大きな模範になった方ではないかと思いますが。
実際、イエス様の昇天以後、弟子たちはマリア様と共に暮らし、何か悩みや相談を求める時にはたくさんのアドバイスをマリア様に求めたそうです。 ですから、カトリック教会がマリア様にたくさんの祈りを捧げる理由も、すべてここにあるのです。 マリア様を他の聖人より最もたくさん敬う理由は、他でもなくカトリック教会の2000年前の古い伝統なのです。
特に今日の福音のみことばで、マリア様は数日前に天使ガブリエルの訪問を受けて親戚のエリサベトの妊娠の知らせを聞きました。 その知らせを聞いてから、マリア様はすぐに親戚のエリサベトを助けるために、エリサベトが住むユダの山里に旅立ちました。 その街が歩いて行くにはかなりの距離にもかかわらず、マリア様は迷わずに行かれたのです。
このようなマリア様の積極的な行動を見るたびに、私は隣人愛の実践、つまり、施しの活動の実践は、長い間悩まずに決心したなら直ちに(ただちに)実行しなければならないということを悟りました。
皆さんも福音を聞いたなら直ちに行動で実践してください。 椅子に座って悩んでばかりしないで、マリア様のように直ちに積極的に行動に移してください。
最後に、今日のマリア様の被昇天の大祝日に特別にロザリオの祈り、特に栄えの神秘を捧げながら第四の黙想、「マリア、天の栄光に上げられる」という神秘を祈る時、真剣に黙想する時間を持ってみればいかがでしょうか。 
以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘은 성모 승천 대축일입니다. 성모님께서 하늘로 불려 올라가시게 된 사건의 의미에 대해서 간단하게 말씀드리면, 우리도 성모님처럼만 하느님의 계획, 하느님의 바램, 하느님의 말씀에 순종하며 살기만 하면 우리도 언젠가는 성모님처럼 같은 영광을 누리게 될 것이라는 뜻입니다. 
그런데 그 하느님의 계획, 하느님의 바램, 하느님의 말씀이란 도대체 무엇입니까? 
그것은 다름아닌 사도 바오로가 명확하게 가르쳐 주셨습니다. 
특히, 테살로니카 1서 5장을 읽어 보십시오. 사도 바오로는 하느님의 바램에 대해 명확하게 가르쳐 주셨습니다. 
그 중에서 몇 개의 구절을 소개해 보겠습니다. 
5장 11절, "서로 격려하고 저마다 남이 성장할 수 있도록 도와주세요" 
5장 12절, "타이르는 이들을 존중하고" 
5장 13절, "사랑으로 극진히 존경하고, 서로 평화롭게 지내세요" 
14절, "무질서하게 지내는 이들을 타이르고 소심한 이들을 격려하고, 약한 이들을 도와 주며 참을성을 가지고 모든 사람을 대하십시오" 
15절, "아무도 다른 이에게 악을 악으로 갚지 않도록 주의하십시오. 서로에게 좋고 또 모든 사람에게 좋은 것을 늘 추구하십시오" 
그리고 제가 가장 좋아하는 구절입니다만, 16-18절
"언제나 기뻐하십시오. 끊임없이 기도하십시오. 모든 일에 감사하십시오. 이것이 그리스도 예수님 안에 살아가는 여러분에게 바라시는 하느님의 뜻입니다." 
하느님의 바램이란 바로 이것입니다. 아마도  성모님께서는 하느님의 바램을 제일 잘 아셨고, 또 제자들 중에 가장 큰 모범이 되신 분이 아니셨나 하고 생각합니다만. 
실제로 예수님의 승천 이후에 제자들은 성모님과 함께 살았고, 무슨 고민이나 상담을 청할 경우 조언을 성모님에게 많이 구하였다고 합니다. 그래서 가톨릭 교회가 성모님에게 많은 기도를 드리는 이유도 다 여기에 있는 것입니다. 성모님을 다른 성인들보다 제일 많이 공경하는 이유가 다름아닌 가톨릭 교회의 2000년 된 오랜 전통인 것입니다. 
특히 오늘 복음 말씀에서 성모님은 며칠전에 천사 가브리엘의 방문을 받고 친척 엘리사벳의 임신 소식을 들었습니다. 그 소식을 듣자마자 성모님은 즉시 친척 엘리사벳을 돕기 위해 엘리사벳이 살고 있는 유다 산악 지방으로 길을 떠났습니다. 그 거리가 걸어서 가기에는 꽤 먼거리였음에도 불구하고 성모님은 망설이지 않고 갔던 것입니다. 
이런 성모님의 적극적인 행동을 볼 때마다 저는 이웃사랑의 실천, 자선활동의 실천은 오랫동안 고민하지 말고 결심하였다면 즉시 실행해야 한다는 것을 깨달았습니다. 
여러분도 복음을 들었다면 즉시 행동으로 실천하십시오. 의자에 앉아서 고민만 하지 말고 성모님처럼 즉시 적극적으로 행동으로 옮기시길 바랍니다.  
마지막으로 오늘 성모 승천 대축일에 특별히 묵주기도, 특히 영광의 신비를 바치면서 4단, 성모님께서 하늘에 불려 올라가심을 진지하게 묵상하는 시간을 가져 보는 것은 어떻겠습니까? 
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年8月16日 月曜日 年間第20月曜日 お説教

今日の福音のみことばの核心メッセージは、施しの活動をたくさんしろということです。
永遠の命を得るために一番なくてはならないものは何かというと、何も代償なく、寄付活動を行うことです。
今日の福音のみことばでイエス様が最もはっきりと教えてくださいましたよね?
ある青年がイエス様に尋ねました。 「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればいいのか」と。
イエス様は掟の実践だけでなく、自分が持っているものを貧しい人々に絶えず施す施しの活動だとおっしゃいました。
ちなみに申し上げますと、2018年度の世界寄付指数でOECD146カ国の中に、韓国は60位、日本は128位だそうです。
特に、施しの活動で最も重要なポイントは自分に返す力がない人たちに施すことです。 つまり、見知らぬ人、一度も会ったことのない貧しい人々に施してください。 そうすれば、その報いは神様が返してくれるはずです。
以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지는 다름아닌 자선활동을 많이 하라는 것입니다.
영원한 생명을 얻는데 가장 필수적인 것이 무엇이냐 하면은 자신의 것을 아무 댓가 없이 내어 주는 기부 활동인 것입니다.
오늘 복음 말씀에서 예수님께서 가장 확실하게 가르쳐 주시지 않았습니까?
어떤 젊은이가 예수님에게 물었죠. 영원한 생명을 얻으려면 무슨 선한 일을 해야 하냐고.
예수님께서는 계명의 실천 뿐만 아니라 다름아닌 자기가 가진 것을 가난한 사람들에게 끊임없이 베푸는 자선 활동이라고 말씀하셨습니다.
참고로 말씀드리면 2018년도 세계 기부 지수에서 OECD 146개국 중에 한국은 60위, 일본은 128위라고 합니다.
특히 자선 활동에서 가장 중요한 포인트는 자기에게 갚을 힘이 없는 사람들에게 하는 것입니다. 즉, 낯선 사람, 한번도 만난 적이 없는 가난한 사람에게 베푸십시오. 그러면 그 보상은 하느님께서 갚아 주실 것입니다.
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月18日 水曜日 年間第20水曜日 お説教

イエス様は今日の福音のみことばを例え話でおっしゃいましたが、私はストレートで申し上げます。
イエス様がおっしゃった天の国は、まさにご本人自身でございます。
自分のぶどう園もイエス様がいらっしゃる所、すなわち天の国です。 そのぶどう園の主人が自分のぶどう園で働く労働者を雇うために朝早くから歩き回ったのは、イエス様が天国で一緒に生きる人々を招待しようとあちこち回ったことを言います。
それにふさわしい賃金は、まさに私たちにも約束された永遠の命なのです。
つまり、このみことばは救い主の神の子は今現在にも私たちを永遠に生きる天の国に招待しようと人の人生の始まりから終わりまでずっと招待しているという証です。
その招待に応答し、洗礼の秘跡を通して永遠の命の約束を保証してもらった皆さん、これからすべきことが何なのか皆さん分かっていますね。
私たちは永遠に亡くならない命の約束を保証された人々だから、世の中のどんな試練や大変なことがあっても常に喜び、常に祈り、どんな状況でも感謝できるということです。
だからいつも喜んで、いつも祈りながら、どんな状況でも感謝してください。 私たちは天国に生きることを保証された人たちなので、世の中の辛さなんかは軽く乗り越えることができるということです。 なぜなら、私たちには天国で生きるという希望があるからです。 そしてその希望のおかげで本当にここでいつも喜んで、いつも祈り、どんな状況でも感謝して自分が持っているものをすべて絶えず見知らぬ貧しい人々に施せば、すでにその人は天国に生きることになるので自動的に死んでも天国で生きるようになるのです。
しかし、このすべての事実を信じられず、現実であまりにも苦しければ、死んでも永遠にその苦しみから抜け出せないでしょう。 それが地獄ではなく何でしょうか。 ですから、今日の福音の最後から聞いたように、先にいる者もなれるし、後にいる者もなれるということは人のやり方次第だと言っても過言ではありません。
皆さんは先にいる者である天国で永遠に幸せに生きることをお望みですか? それとも後にいる者である地獄で永遠に不幸であることを望みますか。
幸せになることをお望みなら私のお勧め通りにしてほしいです。 以上です。しばらく黙想しましょう。

예수님께서는 오늘 복음 말씀을 비유로 말씀하셨지만 저는 직접적으로 말씀 드리겠습니다.
예수님께서 말씀하신 하늘나라는 바로 본인 자신이십니다.
자기 포도밭 또한 예수님이 계신 곳, 즉 하늘나라이죠. 밭임자가 자기 포도밭에서 일할 일꾼들을 사려고 아침 일찍부터 돌아다니셨던 것은, 다름아닌 예수님께서 하늘나라에서 함께 살 사람들을 초대하려고 이 곳 저 곳 다니신 것을 말합니다.
거기에 정당한 삯은 바로 우리도 약속 받은 영원한 생명인 것입니다.
즉, 이 말씀은 구세주 하느님의 아들께서는 오늘날에도 우리를 영원하게 사는 하늘나라에 초대하시려고 사람의 인생의 시작부터 마침까지 줄곧 초대하고 있다는 증거입니다.
그 초대에 이미 응답하여 세례성사를 통해 영원한 생명의 약속을 보증받은 여러분, 여러분이 이제 할 일이 무엇인지 다 아시죠?
우리는 영원히 사라지지 않는 생명의 약속을 보증받은 사람들이기 때문에 세상의 어떤 시련이나 힘듦이 오더라도 항상 기뻐하고 늘 기도하며 어떤 처지에서도 감사할 수 있다는 것입니다.
그러므로 항상 기뻐하고 늘 기도하며 어떤 처지에서도 감사하십시오. 우리는 영원한 하늘나라에 살 게 될 것을 보장받은 사람들이기 때문에 세상의 힘듦 따위는 가볍게 극복할 수 있다는 것입니다. 왜냐하면 우리에게는 하늘나라에 살 것이라는 희망이 있기 때문이니까요. 그리고 그 희망 때문에 진짜로 여기에서 항상 기뻐하고 늘 기도하며 어떤 처지에서도 감사하고 자기가 가진 것을 다 끊임없이 낯선 가난한 사람들에게 베풀면 이미 그 사람은 하늘나라에 살고 있는 것이 되므로 자동적으로 죽어서도 하늘나라에 살게 되는 것이랍니다.
하지만 이 모든 사실을 믿지 못하고 현실에서 너무 괴로워한다면 죽어서도 영원히 그 괴로움에서 벗어나지 못하게 될 것입니다. 그것이 다름아닌 지옥이 아니고 무엇이겠습니까? 그러니까 첫째가 될 수도 있고, 꼴찌가 될 수도 있다는 것은, 사람이 하기 나름에 달려 있다고 해도 과언이 아닌 것입니다.
여러분은 첫째인, 천국에서 영원히 행복하게 살기 원하십니까? 아니면 꼴찌인, 지옥에서 영원히 불행하기를 원하십니까?
행복하게 되기를 원하신다면 제가 권하는 대로 하셨으면 좋겠습니다. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月20日 金曜日 聖ベルナルド お説教

今日の福音のみことばを核心だけ言います.
神の子が律法で最も重要な掟が何なのかについて、その方は神を愛することと、隣人を自分のように愛することだとおっしゃいました。
つまり、隣人を自分のように愛することが、神を心を尽くして精神を尽くし思いを尽くして愛することだそうです。
ところが、皆さんは本当に神様を心を尽くして精神を尽くして思いを尽くして愛していますか?
自分の胸に手をあてて良心を究明してみてください。
隣人を自分のように思って愛しているなら、共同体の中に流れているあらゆる悪い噂は何だということでしょうか。 加害者がいなくて、みんなが自分で被害者だと思っているこの現実を何だと説明できますか。
皆さんが本当に隣人を自分のように愛していたら、悪い噂など存在してはいけません。 それが正常です。 ところが皆さんは今非定常の道を歩んでいます。
隣人を自分のように愛しているなら、他人のことについてつべこべ言えないのが正常です。 もし他人について色々な話をしたい人は、先に自分について先に自ら噂を広めてください。 良いこととか、悪いこととか関係なく、まず自分のことを他人に電話して話をしてください。
そうできないなら沈黙してください。 そしてミサの時、回心の祈りの時、自分の胸を3回叩いてください。 「私が悪かった」、「私が悪かった」「私が一番悪かった」と。
なぜ、日本のカトリック教会はミサの中に回心の祈りのときに胸を叩かないんですか? これは全世界のカトリック教会の信者たちがすることなのに、なぜ日本の教会だけしないんですか? 日本の教会だけ特別だという意味ですか。 日本の教会の信者たちは、自分の胸を叩かなくてもいいほど、みんな神様に優しい人たちだという意味ですか? これは非常におかしいです。
日本の教会の司教様たちは、どうか普遍的な教会が行い通り、きちんと信者たちに教えてほしいんですが。 信者たちだけがかわいそうです。
皆さんだけでもミサの中に回心の祈りの時、自分の胸を3回叩いてください。 そして、自分の胸を叩きながら「私が悪かった、私が悪かった、私が一番悪かった」と心の中で叫んでください。
そして隣人を自分のように愛せなかった過去を反省してください。 まことの神の愛と隣人への愛は、まず自分自身の回心から始まるものです。
しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀을 군더더기 없이 핵심만 말하겠습니다.
하느님의 아들께서 율법에서 가장 중요한 계명이 무엇이냐에 대해서 그분은 하느님을 사랑하는 것과 이웃을 자기 몸처럼 사랑하는 것이라고 말씀하셨습니다.
즉, 다시 말해서, 이웃을 자기 몸처럼 사랑하는 것이 곧 하느님을 마음을 다하고 목숨을 다하고 정신을 다하여 사랑하는 것이라고 합니다.
그런데 여러분은 정말로 하느님을 마음을 다하고 목숨을 다하고 정신을 다하여 사랑하고 있습니까?
자기 가슴에 손을 대고 양심을 돌아 보십시오.
이웃을 내 몸처럼 생각하고 사랑한다면, 우리 공동체 안에 떠도는 온갖 나쁜 소문들은 무엇이라는 말입니까? 가해자는 없고 다 스스로 피해자라고 여기는 이 현실을 무엇이라고 설명할 수 있습니까?
여러분이 정말로 이웃을 내 몸처럼 사랑한다면 나쁜 소문 따위는 존재하지 않아야 합니다. 그게 정상입니다. 그런데 여러분은 비정상의 길을 가고 있습니다.
이웃을 자기 몸처럼 사랑하고 있다면 남들에 대해 이러쿵 저러쿵 말할 수 없는 것이 정상입니다. 혹시 남들에 관해 이런 저런 이야기를 하고 싶은 분들은 먼저 자기에 관해서 먼저 스스로 소문을 퍼뜨리십시오. 좋든 좋지 않든 상관없이 자기에 관해 스스로 남들에게 전화해서 이야기를 하시길 바랍니다.
그렇게 할 수 없으면 침묵 하십시오. 그리고 미사 때 고백의 기도 때 자기 가슴을 세번 치십시오. '내 탓이요 내 탓이요 내 큰 탓이요'라고.
왜 일본 가톨릭 교회는 미사 중 고백의 기도 때 자기 가슴을 치지 않습니까? 이것은 전세계 가톨릭 교회 신자들이 다 하는 것인데 왜 일본 교회만 하지 않는 것입니까? 일본 교회만 특별하다는 뜻입니까? 일본 교회 신자들은 자기 가슴을 치지 않아도 되지 않을 정도로 다 하느님 보시기에 착한 사람들이란 뜻입니까? 이것은 매우 비정상적이며 매우 이상한 것입니다.
일본 교회 주교님들은 제발 보편 교회가 하는 대로, 제대로 신자들에게 가르쳐 주었으면 좋겠습니다만. 신자들만 불쌍합니다.
여러분 만이라도 미사 중 고백의 기도 때 자기 가슴을 세 번 치십시오. 그리고 자기 가슴을 치면서  '내 탓이요 내 탓이요 내 큰 탓이요' 라고 마음 속으로 외치십시오.
그리고 이웃을 자기 몸처럼 사랑하지 못했던 과거를 반성하시길 바랍니다. 참다운 하느님 사랑과 이웃 사랑은 먼저 자기 자신의 회심에서 시작하는 법입니다.
잠시 묵상하겠습니다.

       ↑上の絵は回心するマグダラのマリアです。

 

 

 

 

2021年8月22日日曜日 年間第21主日 お説教

イエス様は今日の福音のみことばを例え話でおっしゃいましたが、私はストレートで申し上げます。
イエス様がおっしゃった天の国は、まさにご本人自身でございます。
自分のぶどう園もイエス様がいらっしゃる所、すなわち天の国です。 そのぶどう園の主人が自分のぶどう園で働く労働者を雇うために朝早くから歩き回ったのは、イエス様が天国で一緒に生きる人々を招待しようとあちこち回ったことを言います。
それにふさわしい賃金は、まさに私たちにも約束された永遠の命なのです。
つまり、このみことばは救い主の神の子は今現在にも私たちを永遠に生きる天の国に招待しようと人の人生の始まりから終わりまでずっと招待しているという証です。
その招待に応答し、洗礼の秘跡を通して永遠の命の約束を保証してもらった皆さん、これからすべきことが何なのか皆さん分かっていますね。
私たちは永遠に亡くならない命の約束を保証された人々だから、世の中のどんな試練や大変なことがあっても常に喜び、常に祈り、どんな状況でも感謝できるということです。
だからいつも喜んで、いつも祈りながら、どんな状況でも感謝してください。 私たちは天国に生きることを保証された人たちなので、世の中の辛さなんかは軽く乗り越えることができるということです。 なぜなら、私たちには天国で生きるという希望があるからです。 そしてその希望のおかげで本当にここでいつも喜んで、いつも祈り、どんな状況でも感謝して自分が持っているものをすべて絶えず見知らぬ貧しい人々に施せば、すでにその人は天国に生きることになるので自動的に死んでも天国で生きるようになるのです。
しかし、このすべての事実を信じられず、現実であまりにも苦しければ、死んでも永遠にその苦しみから抜け出せないでしょう。 それが地獄ではなく何でしょうか。 ですから、今日の福音の最後から聞いたように、先にいる者もなれるし、後にいる者もなれるということは人のやり方次第だと言っても過言ではありません。
皆さんは先にいる者である天国で永遠に幸せに生きることをお望みですか? それとも後にいる者である地獄で永遠に不幸であることを望みますか。
幸せになることをお望みなら私のお勧め通りにしてほしいです。 以上です。しばらく黙想しましょう。

예수님께서는 오늘 복음 말씀을 비유로 말씀하셨지만 저는 직접적으로 말씀 드리겠습니다.
예수님께서 말씀하신 하늘나라는 바로 본인 자신이십니다.
자기 포도밭 또한 예수님이 계신 곳, 즉 하늘나라이죠. 밭임자가 자기 포도밭에서 일할 일꾼들을 사려고 아침 일찍부터 돌아다니셨던 것은, 다름아닌 예수님께서 하늘나라에서 함께 살 사람들을 초대하려고 이 곳 저 곳 다니신 것을 말합니다.
거기에 정당한 삯은 바로 우리도 약속 받은 영원한 생명인 것입니다.
즉, 이 말씀은 구세주 하느님의 아들께서는 오늘날에도 우리를 영원하게 사는 하늘나라에 초대하시려고 사람의 인생의 시작부터 마침까지 줄곧 초대하고 있다는 증거입니다.
그 초대에 이미 응답하여 세례성사를 통해 영원한 생명의 약속을 보증받은 여러분, 여러분이 이제 할 일이 무엇인지 다 아시죠?
우리는 영원히 사라지지 않는 생명의 약속을 보증받은 사람들이기 때문에 세상의 어떤 시련이나 힘듦이 오더라도 항상 기뻐하고 늘 기도하며 어떤 처지에서도 감사할 수 있다는 것입니다.
그러므로 항상 기뻐하고 늘 기도하며 어떤 처지에서도 감사하십시오. 우리는 영원한 하늘나라에 살 게 될 것을 보장받은 사람들이기 때문에 세상의 힘듦 따위는 가볍게 극복할 수 있다는 것입니다. 왜냐하면 우리에게는 하늘나라에 살 것이라는 희망이 있기 때문이니까요. 그리고 그 희망 때문에 진짜로 여기에서 항상 기뻐하고 늘 기도하며 어떤 처지에서도 감사하고 자기가 가진 것을 다 끊임없이 낯선 가난한 사람들에게 베풀면 이미 그 사람은 하늘나라에 살고 있는 것이 되므로 자동적으로 죽어서도 하늘나라에 살게 되는 것이랍니다.
하지만 이 모든 사실을 믿지 못하고 현실에서 너무 괴로워한다면 죽어서도 영원히 그 괴로움에서 벗어나지 못하게 될 것입니다. 그것이 다름아닌 지옥이 아니고 무엇이겠습니까? 그러니까 첫째가 될 수도 있고, 꼴찌가 될 수도 있다는 것은, 사람이 하기 나름에 달려 있다고 해도 과언이 아닌 것입니다.
여러분은 첫째인, 천국에서 영원히 행복하게 살기 원하십니까? 아니면 꼴찌인, 지옥에서 영원히 불행하기를 원하십니까?
행복하게 되기를 원하신다면 제가 권하는 대로 하셨으면 좋겠습니다. 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月23日月曜日 年間第21月曜日 お説教

今日の福音のみことばは先週土曜日の福音のみことばの延長です。
イエス様は当時、ユダヤ人の指導者たちと言われるファリサイ派とサドゥガイ派と律法学者たちを叱りました。 
韓国語で叱るという意味は、「死んでいる魂を起こす」という意味です。
イエス様は指導者と呼ばれる人々の魂を揺り起こしました.
しかし、彼らは悔い改めなかったのです。
実は土曜日と今日の福音のみことばは、皆さんに宣言されたというより、カトリック教会の指導者という司教、神父たちに宣言されたと言っても過言ではありません。
司教、神父たちは説教の時に、自分が言ったとおりに生きるだけでも天国に行いますが、現実はそうではないですね。 たくさん司教と神父たちが、信者たちより陰口をたくさんたたき、信者たちよりたくさん金を好み、信者たちよりも祈りを少なくします。 そして信者たちより、施しと人を赦しに対してケチです。
皆さんの周りにいる神父たちを見ても十分分かります。 それで先週土曜日と今日は皆さんではなく、司教と神父たちにイエス様が叱れたと言えます。 司教と神父たちは、みんな偽善者だと。 
神ではなく世の中の価値という偶像に従う偽善者たちだと叱りました。
今現在のファリサイ派とサドゥガイ派と律法学者である司教と司祭たちのために信者の皆さんの切実なお祈りをお願い致します。

오늘 복음 말씀은 지난 토요일 복음 말씀의 연장입니다. 
예수님께서는 당시 유다인들의 지도자들이라고 하는 바리사이파, 사두가이파, 율법학자들을 혼내셨습니다. 
한국어에서 혼낸다는 말의 뜻은, 죽어 있는 영혼을 깨운다는 뜻입니다. 
예수님께서는 지도자라고 불리우는 사람들의 영혼을 흔들어 깨우셨습니다. 
그러나 그들은 깨어나지 않았죠. 
사실 지난 토요일과 오늘 복음 말씀은 여러분에게 선포되었다기 보다 가톨릭 교회의 지도자라고 하는 주교, 신부들에게 선포되었다고 해도 과언이 아닙니다. 
주교, 신부들은 강론 때에 자기가 말한 대로만 살아도 천국 가는데, 현실은 그렇지 않죠. 대부분의 많은 주교와 신부들이 오히려 신자들 보다 더 많이 뒷담화를 하고 신자들 보다 더 많이 돈을 좋아하고 신자들 보다 기도를 적게 합니다. 그리고 신자들 보다 자선과 용서에 인색합니다. 
여러분 가까이에 있는 신부들만 보더라도 충분히 알수 있습니다. 그래서 지난 토요일과 오늘은 여러분이 아닌 주교와 신부들에게 예수님께서 혼을 내렸다고 할 수 있습니다. 주교와 신부들은 다 위선자라고. 
하느님이 아닌 세상의 가치라는 우상을 따르는 위선자들이라고 혼을 내셨습니다. 
오늘날의 바리사이파와 사두가이파, 율법학자들인 주교와 사제들을 위해 신자 여러분의 간절한 기도 부탁드립니다. 

 

 

 

 

2021年8月27日金曜日 聖モニカの記念日 お説教

 

 

 

 

2021年8月28日土曜日 聖アウグスティヌスの記念日 お説教

今日の福音のみことばをストレートで申し上げます。
タラントンは、神様が私たちに任せてくださった使命です。 どんな使命かって?
それは被造物と人を愛する心、私に罪を犯した人を赦す心、貧しい人に施しを施す心などが今日の福音で例え話として聞いたタラントンだと私は思います。
今日の福音で主人が帰ってきた時、五タラントンと二タラントンをもらったしもべは、主人に褒められ、一タラントンをもらったしもべは主人に叱られました。
これはすなわち、最後の裁きの時だと思います。 最後の裁きの時、神の子が栄光の姿でいらっしゃって、他人と被造物を面倒をみながら愛した人々は永遠の命の国へ、反面、他人と被造物に対して無関心で、ただ自分の幸せだけのために生きてきた人々は外の暗闇の所、つまり、地獄に送られるということだと思いますが…!
したがって、皆さん、後日外の暗闇のところに追い出されないために、私たちが今すぐ始めなければならないことは何でしょうか。 今日の第一朗読のみことば通り生きて行かなければならないんではないでしょうか。 以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀을 직접적으로 말씀 드리겠습니다.
탈렌트는 하느님께서 우리에게 맡겨주신 사명입니다. 어떤 사명이냐고요?
그것은 피조물과 사람을 사랑하는 마음, 내게 죄를 지은 사람을 용서하는 마음, 가난한 사람에게 자선을 베푸는 마음 등이 오늘 복음에서 비유로 들은 탈렌트라고 저는 생각합니다.
오늘 복음에서 주인이 돌아왔을 때 다섯 탈렌트와 두 탈렌트 받은 종들은 주인에게 칭찬을 받고 한 탈렌트 받은 종은 주인에게 혼이 났습니다.
이는 다름아닌 공심판 때라고 생각합니다. 공심판 때 하느님의 아들이 영광의 모습으로 오셔서 타인과 피조물을 돌보며 사랑했던 사람들은 영원한 생명의 나라로, 반대로 타인과 피조물에 대해 무관심하고, 오직 자기 자신의 행복만을 위해 살아온 사람들은 바깥 어두운 곳, 즉 지옥으로 보내실 것이라는 말씀이라고 생각합니다만.
그러므로 여러분, 훗날 바깥 어두운 곳으로 쫓겨 나지 않기 위해서 우리가 지금 당장 시작해야 할 일이 무엇일까요? 오늘 제1독서 말씀대로 살아가야 하지 않겠습니까? 이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月29日日曜日 年間第22主日 お説教

今日の福音のみことばでイエス様は手を洗わずに食事をされました。 手を洗うということはユダヤ人たちの伝統でしたが、イエス様はその伝統を守らなかったです。 最近のようなコロナ時代に手を洗うというのは自分のためにも他人のためにもとても重要な衛生ですが、昔イエス様がユダヤ人たちの伝統を行わなかったということはユダヤ人たちが彼らの伝統、すなわち律法遵守だけに固執しながらも実際、律法で重要だと教える人に対する積極的な愛とケアにはケチだったからではないかと思います。
どれほどひどかったらイエス様がこうおっしゃったでしょう? 
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」と。
そのため、使徒たちは律法を補足する意味で、特に今日の第二朗読で使徒ヤコブはこのように教えました。 キリストの弟子が実践すべき信心は、困った人々と貧しい人々の面倒を見ること、そして世の中に染まらないように自分の言葉や行為を守ることだとおっしゃいました。
ここで世の中に染まらないように自分の言葉と行為を守ることを具体的に申し上げますと、次のようです。
私がここ日本に来て 5年間暮しながら感じたことを素直に申し上げます。みんなそうではないですが、一般的に日本人は本人が思ったことをその場で言わず、陰口をたたく、あるいは嫌がらせをする悪い習慣を持っていると思います。 そしていじめるのも陰湿(いんしつ)だって言うんですかね。
強い者の前では笑顔で媚び(こび)、後ろから弱い者をいじめるとても悪い習慣、そして強い者も自分に媚びる者をかわいがって虐待される者を見殺しをする昔、幕府時代から受け継がれてきた伝統があると思います。
その伝統に対して思い切って破る努力をキリスト信者たちはしなければならないではないですか。 少なくとも自分がイエス·キリストの福音を聞いて実践する、そしてご聖体を迎えるキリスト信者なら、当然、自分の国の悪い習慣、伝統を破ってしまわなければならないのではないでしょうか。少なくとも、わがキリスト信者たちは、他の一般人とは異なる生き方をすべきだと思いますが…。
自分がまず、自分の国の悪い習慣、悪い伝統を思い切ってしない勇気がある態度を持ち、世の中でわがキリスト信者たちが真っ暗な夜に道あんないにならなければならないと私は思いますが、皆さんはどう思いますか?
そして今日はちょうど111年前に帝国主義の日本が韓国を侵略して韓国の主権を強制的に奪い、35年間植民地支配を始めたとても悲しい日です。 この日を皆さんも私と一緒に記憶していただけませんか。

오늘 복음 말씀에서 예수님께서는 손을 씻지 않고 식사를 하셨습니다. 손을 씻는다는 것은 유다인들의 전통이었는데 예수님께서는 그 전통을 지키지 않으셨습니다. 요즘같은 코로나 시대에 손을 씻는다는 것은 나를 위해서나 남을 위해서나 아주 중요한 위생이지만, 그 옛날 예수님께서 유다인들의 전통을 행하지 않았다는 것은 그만큼 유다인들이 그들의  전통, 즉 율법 준수만을 고집하면서도 정작 율법에서 중요하다고 가르치는 사람에 대한 적극적인 사랑과 돌봄에는 인색하였기 때문이 아니었을까 하고 생각합니다만. 
오죽했으면 예수님께서 이렇게 말씀하시지 않았습니까? 
"사람 밖에서 몸 안으로 들어가 그를 더럽힐 수 있는 것은 하나도 없다. 오히려 사람에게서 나오는 것이 그를 더럽힌다." 라고. 
그렇기 때문에 사도들은 율법을 보충하는 의미에서 특히 오늘 제2독서에서 야고보 사도는 이렇게 가르치셨습니다. 그리스도의 제자들이 실천해야할 신심행위는 다름아닌 곤란한 상황을 겪는 이들과 가난한 이들을 돌보는 일과 세상에 물들지 않도록 자신의 말과 행위를 지키는 일이라고 하였습니다. 
여기에서 세상에 물들지 않도록 자신의 말과 행위를 지키는 일을 구체적으로 말씀드리면, 다음과 같습니다. 
제가 여기 일본에 와서 5년간 살면서 느낀 점을 솔직하게 말씀드리겠습니다. 다 그런 건 아니겠지만 일반적으로 일본인들은 본인이 생각한 것을 그 자리에서 말하지 않고 뒤에서 욕설이나 괴롭힘을 하는 나쁜 습관을 가지고 있다고 생각합니다. 그리고 괴롭히는 것도 음습하다고 해야 하나요? 
강한 자 앞에서는 웃는 얼굴로 교태를 부리고, 뒤에서 약한 자를 괴롭히는 아주 나쁜 습관, 그리고 강한 자도 자기에게 아첨하는 자를 귀여워하고 학대받는 자를 죽이는 옛날 막부시대부터 내려온 전통이 있다고 생각합니다. 
그 전통에 대해서 과감히 깨 부수는 노력을 그리스도 신자들은 해야 하지 않겠습니까? 적어도 내가 예수 그리스도의 복음을 듣고 실천하는, 성체를 모시는 그리스도 신자라면 당연히 자기 나라의 나쁜 습관, 전통을 깨 부수어 버려야 하지 않겠습니까? 적어도 우리 그리스도 신자들은 다른 일반인들과는 다르게 살아야 한다고 생각합니다만. 
내가 먼저 내 나라의 나쁜 습관, 나쁜 전통을 과감히 하지 않는 용기 있는 태도를 지녀 세상 안에서 우리 그리스도인들이 캄캄한 밤에 길잡이 역할을 하는 가로등이 되어야 한다고 저는 생각합니다만, 여러분은 어떻게 생각하십니까? 
그리고 오늘은 정확히 111년 전 제국주의 일본이 한국을 침략하여 한국의 주권을 강제적으로 빼앗아 35년간 식민지 지배를 시작한 아주 슬픈 날입니다. 이 날을 여러분도 저와 함께 기억해 주시지 않겠습니까? 
잠시 묵상하겠습니다. 

「庚戌国恥日」

1910年8月29日、韓国が日本に自分の国の主権を奪われました。 事実上、日本の強制的な植民支配が始まったのです。

 

 

 

 

 

2021年8月30日月曜日 年間第22月曜日 お説教

イエス様の友達が誰なのかご存知ですか。
まさに今日の福音のみことばでイエス様が直接宣言されました。
貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人だそうです。
彼らにとってイエス様はまさに救い主そのものです。
このようにイエス様がイザヤ預言書の巻物の一部分を宣言した後、説教をされました。 ところでイエス様の説教のみことばはたった一つの文章でした。
イエス様のお話を聞いていたユダヤ人たちが聞いたその現場でイエス様が宣言されたお話が全部実現したとおっしゃいました。 このみことばは神の子、本人が直接来たということです。 直接来られたのだから、貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人はどうなるでしょう。
言葉で表現できない喜びを味わっているということでしょう。 つまり、天国そのものの方がこの世にいらっしゃったのだから、天国が遠くにあると知っていた人々にはそれこそ衝撃そのものだったのです。 天国は遠くにあるのではなく、イエス様を信じて受け入れたその人の心の中に、すなわち私たちのそばに近づいてきたということです。
ところで、当時イエス様の説教を聞いていた人々は信じられませんでした。 イエス様を疑いました。 するとイエス様は、過去イスラエル人ではなくて、異邦人に神の治癒と救いが来た歴史的な事実を話しながら、あなたご自身を信じなければ、救いはイスラエルを離れることになるだろうと警告しました。
すると、その現場にいたユダヤ人たちは、怒ってイエス様を山の崖に突き落とそうとしたのです。 しかし、イエス様は何気ないままあなた自信が行こうと思う道を行かれました。 誰が何と言おうと気にせず。
私たちもこの世でキリスト者として生きていくうえで、たくさんの試練や迫害がある可能性があります。 私たちの言葉を排斥して私たちに対して陰口や悪口を言うこともできます。 そのたびに私たちもイエス様のように他人が陰口や悪口を言おうがしまいが気にせず、私たちが進むべきキリストが行かれたその道、すなわち十字架の道行きを進まなければなりません。
私たちのそばには主イエス·キリストが一緒にいらっしゃるので、恐れすぎず、心配しすぎず、私たちに与えられた十字架の道行きを進まなければならないのではないでしょうか。
以上です。しばらく黙想しましょう。

예수님의 친구들이 누구인지 알고 계십니까?
바로 오늘 복음 말씀에서 예수님께서 직접 선포하셨습니다.
가난한 이들 , 잡혀간 이들, 눈먼 이들, 억압받는 이들이라고 합니다.
그들에게 있어서 예수님은 바로 구원자 그 자체이신 분이십니다.
이렇게 예수님께서 이사야 예언서의 두루마리의 한 부분을 선포하신 다음 강론을 하셨습니다. 그런데 예수님의 강론 말씀은 단 한 문장이었습니다.
청중들이 들은 그 현장에서 예수님께서 선포하신  말씀이 다 이루어졌다고 하셨습니다. 이 말씀은 하느님의 아들 본인이 직접 왔다는 것을 의미합니다. 직접 오셨으니까 가난한 이들, 잡혀간 이들, 눈먼이들, 억압받는 이들이 어떻게 되겠습니까?
말로 표현할 수 없는 기쁨을 누린다는 것이겠죠?! 즉 하늘나라 그 자체이신 분이 이 세상에 오셨으니, 하늘나라가 멀리 있다고 알고 있었던 사람들에게는 그야말로 충격 그 자체였던 것입니다. 하늘나라는 멀리 있는 것이 아니라, 예수님을 믿고 받아들인 그 사람 마음 안에, 즉 우리 곁에 다가왔다는 것을 의미합니다.
그런데 당시 예수님의 강론을 듣고 있었던 사람들은 믿지 못했습니다. 예수님을 의심했죠. 그러자 예수님께서는 과거 이스라엘 사람이 아닌 이방인 사람에게 하느님의 치유와 구원이 왔던 역사적 사실을 얘기하시면서 당신 자신을 믿지 않으면 구원은 이스라엘을 떠나게 될 것이라고 경고하셨습니다.
그랬더니 그 현장에 있던 유다인들은 화가 나서 예수님을 벼랑에 밀어 죽이려 했던 것입니다. 하지만 예수님께서는 유유히 당신이 가시는 길을 가셨습니다. 누가 뭐라고 하든 상관치 않으시고.
우리도 이 세상에서 그리스도인으로 살아가는데 많은 어려움이나 박해가 있을 수 있습니다. 우리 말을 배척하고 험담으로 우리를 욕할 수도 있습니다. 그럴 때마다 우리도 예수님처럼 남들이 욕하든 말든 상관하지 말고 묵묵히 우리가 가야 할 그리스도께서 가신 그 길, 즉 십자가의 길을 묵묵히 가야 하겠습니다.
우리 곁에는 우리 주 예수 그리스도께서 함께 계시니 너무 두려워하지도, 너무 걱정하지도 말고 우리에게 주어진 십자가의 길을 꾸준히 가야 하지 않겠습니까?
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年8月31日火曜日 年間第22火曜日 お説教

今日の福音のみことばでイエス様は悪霊に取りつかれた男から悪魔を追い出しました。
神の子がこの世に来られた目的の一つがすなわち悪魔を追い払う仕事です。
イエス様は病者たちを治癒されたりしましたが、悪魔もたくさん追い出しました。 イエス様を救い主と呼ぶ理由がまさにここにあります。 悪魔を追い払うことと治癒は別のものではありません。悪魔を追い払うことと治癒は共にすることです。
それでイエス様は弟子たちにも悪魔を追い出し、病者を治癒し、神の国の福音を知らせよと命令されたのです。
イエス様がキリストの弟子たちに任せてくださった3つの使命が、すなわち悪魔を追い出し、病者を治癒し、福音を宣言することです。
しかし、教会の中に非常に悪い習慣のような伝統が一つあります. 特に、この札幌教区の中にですね。 それは子供のサマーキャンプのたびに起きる現象です。
今はコロナのため行っていませんが、コロナ以前に子供のサマーキャンプのたびに行った遊びがあります。 鬼の遊びがそれです。 大人が悪魔の仮面をかぶって子供たちを驚かせる遊びです。恐怖体験ということを堂々と聖堂の中で行ったということです。 これはあり得ないことです。 聖堂の中で悪魔の遊びをするなんて。 悪魔を追い払った方の家で。
イエス様が切に弟子たちにお願いしましたよね。しかし、今現在の弟子たちはイエス様からこのようなお願いをもらったにもかかわらず、今現在の日本の教会では堂々と悪魔の遊びをやっているのです。もちろん、コロナのため中止されましたが。
今すぐ禁止しなければならないことです。 もしかして、子どもたちに悪魔の遊びをさせるので、日本教会に子ども、青少年、青年が教会に来ないと言っても過言ではありません。
イエス様が今日の福音で悪魔に取りつかれた男の中に入っていた悪魔に命令されたように、私たちも私たちの生活の中のあちこちに隠れている悪魔に断固として厳しく命令しなければなりません。
「イエス·キリストのみ名によって命令する。 私たちの生活の中のあちこちに隠れている悪魔よ。 さっさと退け。 イエス·キリストへ行け」と。
以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에서 예수님께서는 마귀 들린 사람에게서 마귀를 쫓아 내셨습니다.
하느님의 아들께서 이 세상에서 오신 목적 중에 하나가 다름 아닌 구마입니다.
예수님께서는 병자를 치유하시기도 하셨지만, 구마도 굉장히 많이 하셨습니다. 예수님을 구원자라고 부르는 이유가 다름아닌 여기에 있습니다. 구마와 치유는 별개의 것이 아니죠. 구마와 치유는 함께 하는 것입니다.
그래서 예수님께서는 제자들에게도 마귀를 쫓아 내고 병자를 치유하고 하늘나라의 복음을 선포하라고 명령하셨던 것입니다.
예수님께서 그리스도의 제자들에게 맡겨 주신 세 가지 사명이 바로 구마, 치유, 복음 선포입니다.
그러나 교회 안에 아주 나쁜 습관 같은 전통이 하나 있습니다. 특히 이 삿포로 교구 내에 말이죠. 그것은 어린이 여름 캠프 때마다 일어나는 현상입니다.
지금은 코로나 때문에 실시하고 있지 않지만, 코로나 이전에 어린이 여름 캠프 때마다 하는 놀이가 있습니다. 귀신 놀이가 바로 그것입니다. 공포 체험이라는 것을 당당하게 성당 안에서 하였다는 것입니다. 이것은 말이 안되는 사실입니다. 성당 안에서 마귀 놀이를 하다니요. 마귀를 쫓아 내신 분의 집에서.
예수님께서 간절하게 부탁하시면서 까지 제자들에게 마귀를 쫓아 내라고 명령하셨음에도 불구하고 오늘날 일본 교회에서는 버젓이 마귀 분장하여 마귀 놀이를 하고 있는 것입니다. 물론 코로나 때문에 중단되었지만.
당장에 금지해야 할 일입니다. 어쩌면 아이들에게 마귀 놀이를 시키기 때문에 일본 교회에 어린이, 청소년, 청년들이 교회에 오지 않는다고 해도 과언이 아닙니다.
예수님께서 오늘 복음에서 마귀 들린 사람 안에 들어 있는 마귀에게 명령하셨던 것처럼, 우리도 우리 생활 곳곳에 숨어 있는 마귀에게 단호하고 엄하게 명령해야 하겠습니다.
"예수 그리스도의 이름으로 명령한다. 우리 생활 곳곳에 숨어 있는 마귀야. 썩 물러가라. 예수 그리스도에게로 가라" 라고.
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年9月1日水曜日 年間第22水曜日 お説教

今日の福音のみことばに昨日私が申し上げたことが証明されましたね。 イエス様にとって悪魔を追い出すことと治癒は共にすることだと。 
イエス様はペトロのしゅうとめの熱を叱り、また人々の中にいたたくさんの悪魔たちを叱ったそうです。
実は私たちの敵は悪魔です。 悪魔は私たちが神様に愛されることが死ぬことよりもっと嫌だから、私たちをどうすれば神様から遠ざけるようにするか悩むそうです。 つまり、人間が神に愛され、救われるということを誰よりも嫉妬し、憎悪し、一番大嫌いものがまさに悪魔なのです。
それで救い主がいらっしゃった時悪魔たちはじっとすることができなかったのです。 より一層人の中に入って人々を苦しめたのです。 それでイエス様が悪魔を追い出した時、自分たちを放っておけというふうに訴えたのです。 昨日の福音をご参考ください。
イエス様は何とか一日でも早く人々を悪魔から救い出そうと、この村を歩き回りながら悪魔を追い出し、悪魔が出たそこに残っていた傷を癒し、また処方箋で神の国の福音を伝えてくださいました。
イエス様がなさったこの仕事を今現在にも司祭と助祭たちがイエス様に代わって続けています。 たとえコロナのため前より活動量が減ったとしても。
しかし、共同体のミサが中止されたこの時期にも、私は毎日ミサを捧げ、信者の皆さんを記憶しております。 皆さんが主イエスキリストの救いを忘れないように。
ですから、皆さんもこのコロナ時期が続けば続くほど霊的にお互いに記憶してあげたり祈ったりしたらどうですか? お互いのために記憶してくれて祈ってくれる祈りが一番大きな愛だからです.
そして今日は1923年、関東大震災の日だそうです。 それ以来、日本の政治家が流したフェイクニュースでたくさんの韓国人たちが放火犯、井戸に毒を入れた人々、韓国人女性のスカートの中に爆弾が入っているなどのフェイクニュースでおよそ6000人以上の日本に住んでいた韓国人たちが殺されたそうです。 昔も今も自国に何か大きな混乱が起きれば、その原因を自国ではなく外部に、特に韓国に向けるのが日本の過去と現在の政治家なのです。 この日から無念に殺された数多くの韓国人たちの魂を記憶していただけませんか。
以上です。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀에 어제 제가 말씀 드린 것이 증명이 되었네요. 예수님에게 있어서 구마와 치유는 함께 하는 것이라고. 
예수님께서는 베드로의 장모의 열을 꾸짖으셨고, 또 사람들 가운데 있었던 많은 마귀들을 꾸짖으셨다고 합니다. 
사실 우리의 적은 악마입니다. 악마는 우리가 하느님에게 사랑받는 것이 죽는 것보다 더 싫어 우리를 어떻게 하면 하느님에게서 멀어지게 만들까 고민한다고 합니다. 즉, 인간이 하느님에게 사랑받고 구원 받는 다는 것을 그 누구보다도 질투하고 증오하고 가장 미워하는 것들이 다름아닌 악마입니다. 
그래서 구세주께서 오셨을 때 악마들은 가만히 있지를 못했던 것입니다. 더욱 사람들 가운데에 들어가 사람들을 괴롭혔던 것이죠. 그래서 예수님이 악마들을 쫓아 내셨을 때 자기들을 가만히 내버려 두라는 식으로 하소연을 하였던 것입니다. 어제 복음을 참고하십시오. 
예수님께서는 어떻게든 하루라도 빨리 사람들을 악마들에게서 구해 주시려고 이 고을 저 고을로 두루 다니시며 악마들을 쫓아 내시고, 악마들이 나간 그곳에 남아 있던 상처를 치유해 주시고, 또 처방전으로 하느님 나라의 복음을 전해 주셨습니다. 
예수님께서 하셨던 이 일을 오늘날에도 사제와 부제들이 예수님을 대신하여 계속 하고 있답니다. 비록 코로나 때문에 예전보다 활동량이 줄어들었다고 하더라도. 
하지만 공동체 미사가 중지된 이 시기에도 저는 매일 미사를 봉헌하며 신자 여러분들을 기억하고 있습니다. 여러분이 주 예수 그리스도의 구원을 잊어 버리지 않도록 말이죠. 
그러므로 여러분도 이 코로나 시기가 지속되면 될수록 영적으로 서로 기억해 주며 기도해 주도록 하면 어떻겠습니까? 서로를 위해 기억해 주고 기도해 주는 기도가 가장 큰 사랑이기 때문입니다. 
그리고 오늘은 1923년 관동 대지진이 있었던 날이라고 합니다. 그 때 이후로 일본의 정치인들이 퍼뜨린 가짜 뉴스로 수많은 한국인들이 방화범, 우물에 독을 탄 사람들, 한국인 여자의 치마 속에 폭탄이 들어 있다는 등의 가짜 뉴스로 무려 약 6000명 이상의 일본에 살던 한국인들이 죽임을 당했다고 합니다. 예나 지금이나 자국에 무슨 큰 혼란이 터지면 그 원인을 자국이 아닌 외부로 특히 한국으로 탓을 돌리는 것이 일본의 과거와 현재의 정치인들인 것입니다. 이 날 이후로 억울하게 죽임을 당한 수많은 한국인들의 영혼을 기억해 주시지 않겠습니까? 
이상입니다. 잠시 묵상하겠습니다. 

小野幌教会の鐘の音

2022年1月1日神の母聖マリアの祝日 ミサ

2022年1月2日日曜日 主の公現(祭日)ミサ