2021年7月30日金曜日 年間第17金曜日 お説教

今日の福音のみことばの核心メッセージは、ほかでもない偏見と傲慢が満ちていると、神の祝福を受けることができないということです。
イエス様が故郷の村を訪ねました。 ところでイエス様はただ故郷に行きたくて行かれたのではありませんでした。 イエス様はラビとして行かれたのです. ラビとして故郷の人々にも神の国を伝えに行ったのです。 ところで故郷の人の反応はどうでしたか?
「あのやつ、イエスじゃない?」、「そう。そう。イエスだね。マリアの子」、「そう。そう。え-と、その大工の子じゃない?」、「そう。そう。いや~大きくなったね。だってどこにいたんだ?」、「えーと、何のメシアだって。」、「おめ何言ってべさ? あのやつが? もういい。」
大体、こういう反応じゃないですか? ただイエス様は彼らにとって大工の息子、マリアの息子だったのです。 それで、イエス様はただ病者を何人か治癒してくださっただけで、他の奇跡や説教はしませんでした。
心の中に偏見と傲慢に満ちていると、神様の恵みが入るところがありません。 そして共同体の空気が良くなければ、 神様もできる仕事はありません。
例えば皆さんの心の中に私に対して 「最初日本に来た時ね、日本語が全然できなかった神父なのに...今もちょっと下手なんじゃない?」という偏見があったり、または皆さんの共同体の空気の中に「若い韓国人神父が上手くやってみてもどれだけ上手なことか。ありえないことだ。日本について何も知らないくせに」という空気があれば、皆さんには決して神の治癒と悪魔を追い払い、福音の喜び、そして平和がとどまることはできないはずです。
なぜなら、神様はあなたご自身がプレゼントとしてくださった自由意志のため、わが人間たちが自分で自分の心の扉を開かなければ、あの方もどうすることもできないからです。
したがって、イエス様の故郷の人々のように、神様の祝福を遮る人々にならず、神様の治癒、悪魔を追い払い、福音の喜び、平和が完全に宿ることができるよう、私たちの心の扉を24時間開放しておきましょう。 アーメン。

しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지는 다름아닌 편견과 오만 이 가득 차 있으면 하느님의 축복을 받을 수 없다라는 것입니다. 
예수님께서 고향 마을을 찾으셨습니다. 그런데 예수님께서는 단지 고향에 가고 싶으셔서 가신 것이 아니었습니다. 예수님께서는 랍비로서 가신 것이었습니다. 랍비로서 고향 사람들에게도 하늘나라를 전하고자 가셨던 것이었습니다. 그런데 고향 사람들의 반응은 어땠습니까? 
"자~ 예수 아이가? " "그래. 맞다 맞다. 마리아 아들 예수네. " " 맞다 맞다 그 목수 아들이네. 하이고. 마이 컸네. 어디 갔다가 이제 나타났노?" "근데 무신 메시아라 카던데?" "메시아는 무슨. 자가? 치아라 마. 자가 무슨 메시아고?" 
뭐 대충 이런 반응 아니었겠습니까? 단지 예수님은 그들에게 있어서 목수 아들, 마리아 아들이었던 것입니다. 그래서 예수님은 단지 병자 몇 사람만 낫게 해주셨을 뿐 다른 기적이나 강론은 하시지 않았습니다. 
마음 속에 편견과 오만으로 가득 차 있으면 하느님의 은총이 들어갈 자리가 없습니다. 그리고 또 그 공동체의 분위기가 말씀을 받아들일만한 분위기가 형성되어 있지 않으면 하느님께서도 어찌하실 수 없습니다. 
예를 들면 여러분의 마음 속에 저에 대해서 '처음에 일본에 왔을때 일본어 하나도 못했던 신부님인데...지금도 좀 못하는 거 아님?' 라는 편견이 있거나, 또 여러분의 공동체의 분위기 중에 '젊은 한국인 신부가 잘해 봐야 얼마나 잘하겠어? 일본에 대해서 알지도 못하는 주제에' 라는 분위기가 있다면 여러분에게는 결코 하느님의 치유와 구마, 복음의 기쁨, 그리고 평화가 머물지 못할 것입니다. 
왜냐하면 하느님께서는 당신이 선물로 주신 자유의지 때문에 우리 인간들이 스스로 마음의 문을 열지 않으면 그분도 어찌하실 수 없기 때문입니다. 
그러므로 예수님의 고향 사람들처럼 하느님의 축복을 가로막는 사람들이 되지 말고, 하느님의 치유, 구마, 복음의 기쁨, 평화가 온전히 머물 수 있도록 우리의 마음의 문을 24시간 활짝 개방해 둡시다. 아멘. 

잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年7月28日水曜日 年間第17水曜日 お説教

先週日曜日から今日まで福音のみことばは神の国に関する例え話です。
特に今日の福音のみことばで宝を見つけた人が、持っているものをすべて売ってその畑を買ったことは、神の国はこれくらいの価値があるという意味です。 少なくとも神の国を探す人は、持っているものをすべて売るほど、神の国を得るために自分の人生全体を賭けたという意味です。
実は天国を経験した人たちは、この世の中のものが何の役にも立たないように見えるそうです。 彼らはひたすら天国に再び行くために、天国から望むことを命を尽くしてしようとするだけです。 これは今現代に天国を少しでも経験して帰ってきた人々が口をそろえて証するものです。
2000年前に天国から来られた方がいました。 神の子イエスキリストという方でした。 その方がいらっしゃって、天国で暮らすことができる方法を直接教えてくださいました。
それはほかでもなく、愛し合うことです。 神を命を尽くして愛し、隣人を自分のように愛することです。
皆さん、神の国を占める方法が分かりましたか? それでは今日の福音の例え話で出た「すべてのものを売り払って、宝が埋まっている畑を買った人」のように自分の人生全体をかけて神様を命を尽くして愛し、隣人と地球を自分のように愛しましょう。
すると、皆さんは間違いなく天国の人生を生きることになり、また後日神の前に行く時、神様が皆さんをやさしく歓迎してくださるはずです。
だから今からでも頑張りましょう. 天国から来られた神の子が教えてくださったことを命を尽くして実践するよう頑張りましょう。 ファイト。

지난 주일부터 오늘까지 복음 말씀은 하느님 나라에 관한 비유 말씀입니다. 
특히 오늘 복음 말씀에서 보물을 발견한 사람이 가진 것을 모두 팔아 그 밭을 산 것은 하늘나라는 이정도의 가치가 있다는 뜻입니다. 적어도 하느님 나라를 구하는 사람은 가진 것을 다 팔 정도로 하느님 나라를 얻기 위해 자신의 인생 전체를 내 걸었다는 뜻입니다. 
사실 천국을 경험한 사람들은 이 세상의 것이 아무 쓸모 없어 보인다고 합니다. 그들은 오직 천국에 다시 가기 위해 천국에서 원하는 것을 목숨을 바쳐 하려 할 뿐입니다. 이는 오늘날 천국을 조금만이라도 경험하고 다녀온 이들이 한결같이 증언하는 것들입니다. 
2000년 전에 천국에서 오신 분이 계셨습니다. 하느님의 아들 예수 그리스도라는 분이셨습니다. 그분께서 오셔서 천국에서 살 수 있는 방법을 직접 가르쳐 주셨습니다. 
그것은 다름아닌 서로 사랑하는 것입니다. 하느님을 목숨바쳐 사랑하고, 이웃을 내 몸처럼 사랑하는 것입니다. 
자, 여러분, 이제 하느님 나라를 차지하는 방법을 아셨죠? 그러면 오늘 복음의 비유에서 나온 가진 것을 다 팔아 보물이 묻혀 있는 밭을 산 사람처럼 내 인생 전체를 걸어 하느님을 목숨바쳐 사랑하고, 이웃과 지구를 내 몸처럼 사랑합시다. 
그러면 여러분은 틀림없이 천국의 삶을 살게 될 것이고, 또 훗날 하느님 앞에 갔을 때 하느님께서 여러분을 따뜻하게 환영해 줄 것입니다. 
그러므로 지금부터라도 열심히 해 봅시다. 천국에서 오신 하느님의 아들께서 가르쳐 주신 것을 목숨을 바쳐 실천하도록 힘써 봅시다. 화이팅입니다. 

 

 

 

 

2021年7月26日月曜日 聖マリアの両親聖ヨキアムと聖アンナ お説教

皆さん、「神の国」はどこにありますか? 昨日の説教をホームページでご覧になった方や、直接お聞きになった方はよくご存知かと思います。 はい、わがキリスト信者、特にカトリック教会の信者たちは、神の国を私の中に持っています。 どうやって? ご聖体秘跡を通して。 ご聖体を迎えた瞬間、私たちは神の国を自分の中に持って暮らすようになるのです。 つまり、神の国は死んで、神に対する信仰と自分の善良な行いで行くようになるのではないということです。ご聖体を迎えたカトリック教会の信者たちは、神の国を今、そしてここから生きるようになるのです。 死んではただ神の国がここからあそこに移動するだけ。
しかし、神の国に一生一度だけ迎えるのはどうですか? とても不完全ですね。 
私たちの目にはからし種のように小さく見えるご聖体ですが、たびたびご聖体秘跡や聖体拝領に機会があるたびに、たびたび迎えるようになったらどうなるでしょうか? 言葉で表現できないほどうれしくて幸せになることです。 今日の福音のみことばで、イエス様が教えてくださった例え話そのままです。 最初はその感じがはっきり分からないかもしれませんが、しきりにご聖体を迎えれば迎えるほど、私たちも知らないうちに私たちの喜びと幸せは二倍、いや、数十倍、あるいは何百倍以上に大きくなるという意味です。
分かりましたか? ですから、たびたび聖体拝領とご聖体秘跡の機会があるたびにご聖体を迎えてください。 そして、ご聖体をたびたび訪れ、私の中に神の国、つまり天国が拡大するようにしてください。

アーメン。

しばらく黙想しましょう。

여러분, 하느님 나라는 어디에 있어요? 어제 강론을 홈페이지를 통해 보시거나, 직접 들으신 분은 잘 아실 것입니다. 네, 우리 그리스도인들, 특히 가톨릭 교회 신자들은 하느님 나라를 내 안에 갖고 있습니다. 어떻게요? 바로 성체성사를 통해서요. 성체를 모신 순간 우리는 하느님 나라를 내 안에 갖고 살게 되는 것입니다. 즉, 하느님 나라는 죽어서 하느님에 대한 신앙과 나의 착한 행실로 가게 되는 것만은 아니라는 것이죠. 지금 성체를 모신 가톨릭 교회 신자들은 하느님 나라를 지금 여기에서부터 살게 되는 것이랍니다. 죽어서는 단지 하느님 나라가 여기에서 저기로 이동되는 것일뿐. 
하지만 하느님 나라를 평생 한 번만 모시는 것은 어떨까요? 매우 불완전하죠. 
우리 눈에는 겨자씨처럼 작아 보이는 성체이지만, 자주 성체성사나 영성체의 기회가 있을 때마다 자주 모시게 된다면 과연 어떻게 되겠습니까? 말로 표현할 수 없을 정도로 기쁘고 행복해 진다는 것입니다. 오늘 복음 말씀에서 예수님께서 가르쳐 주신 비유 그대로입니다. 처음에는 그 느낌을 제대로 알 수 없을지 모르겠지만, 자꾸 자주 성체를 모시면 모실 수록 우리도 알지 못하는 사이에 우리의 기쁨과 행복은 두 배 아니, 몇 십 배 혹은 몇 백배 이상으로 커진다는 뜻입니다. 
아시겠습니까? 그러므로 자주 자주 영성체나 성체성사의 기회가 있을 때 마다 성체를 모시길 바랍니다. 그리고 성체를 자주 자주 방문하며 내 안에 하느님 나라 즉 천국이 확대될 수 있도록 하시길 바랍니다. 

아멘. 

잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年7月25日 日曜日 年間第17主日 お説教

皆さん、今日の福音のみことばを簡単に核心だけ申し上げます。
皆さん、今日は何の話が聞こえましたか? 
イエス様がパン五つと魚二匹で五千人以上の人々を腹一杯食べさせましたね。 
ところで、ここで注目すべきことは、子供がくれたパン5つと魚2匹で5千人が食べたということですよ。 
一人の子供の犠牲がなかったら5千人を超える人たちは多分お腹いっぱい食べることができなかったでしょう。 
これは何を意味するのですか?
実はイエス様はこの奇跡を通してこの地に神の国の姿を見せたいと思いました。 イエス様が見せてくださった神の国の姿はまさにこんな姿でした。 一人の子供の犠牲と奉献は、イエス·キリストの犠牲を意味します。 そして、そのイエス·キリストの犠牲を通して、全人類はすべて滅ばせず、神の国の中でお腹いっぱい食べたように、すべて幸せに永遠に生きるという意味です。
昔、5千人を食べさせた奇跡のようなものが、すなわち、皆さんと一緒に行っているこのミサなのです。 
だから、このミサに与る皆さんは将来に行く神の国をあらかじめ経験しているのです。
実際にパンとぶどう酒に変化した神の子イエス様を皆さんの中に迎えながらですね。 皆さんの中に入ったイエス様は、本来は一人でしたけど、ご聖体拝領以降は何人かのイエス様に変身されるでしょう。
例えば、「なかむら」イエス様、「さと」イエス様、「すずき」イエス様、「みうら」イエス様、等々。
このようにご聖体を迎えた皆さんも、今日の福音のみことばでパンと魚をお腹いっぱいに食べた5千人のように、とても満足するようになるでしょう。 いや、それよりも言葉に表現できないほど幸せになるでしょう。 私の言葉を信じてください。ご聖体を迎えた皆さんは、神の国を丸ごと食べた皆さんです。 誰かが皆さんに神の国がどこにあるのかと聞いたら、こうやって指で自分の胸を指して答えてください。 ここにあるって。 
そうするためには、ミサに出席する機会があるたびに、あるいはご聖体を迎える機会があるたびに必ず出席しなければなりません。

そして今日は、フランシスコ教皇様が発表された祖父母と高齢者のための世界祈願日です。 今日、教皇様は、老人たちは自分の孫たちにとってみんな信仰の先生だとおっしゃいました。 皆さんが今まで生きてきた知恵でイエスキリストの信仰を皆さんの孫に積極的に教えてください。 これが今日の祈願日に教皇様がおっしゃった核心メッセージです。 以上です。

 

しばらく黙想しましょう。

여러분 오늘 복음 말씀을 간단하게 핵심만 말하겠습니다. 
여러분 오늘 무슨 이야기가 들려왔습니까? 
예수님께서 빵 다섯개와 물고기 두 마리로 5천명이 넘는 사람들을 배불리 먹이셨습니다. 
그런데 여기서 주목할만한 것은, 한 어린이가 준 빵 다섯개 와 물고기 두 마리로 5천명이 먹었다는 것입니다. 
한 어린이의 희생이 없었더라면 5천명이 넘는 사람들은 아마도 배부르게 먹지 못했을 겁니다. 
이것은 무엇을 뜻하는 것일까요? 
사실 예수님께서는 이 기적을 통해 이 땅에 하느님 나라의 모습을 보여주고 싶으셨습니다. 예수님이 보여주신 하느님 나라의 모습은 바로 이런 모습이었습니다. 한 어린이의 희생과 봉헌은 다름 아닌 예수 그리스도의 희생을 의미합니다. 그리고 그 예수 그리스도의 희생을 통해 전 인류는 모두 멸망하지 않고 하느님 나라 안에서 배부르게 먹었듯이 모두 행복하게 영원히 살 것이라는 뜻이랍니다. 
옛날 오천명을 먹이신 기적과 같은 것이 다름 아닌 지금 여러분과 함께 거행하는 이 미사인 것이죠. 
따라서, 이 미사에 참여한 여러분은 장차 미래에 가게 될 하느님 나라를 미리 체험하고 있는 것이랍니다. 실제로 빵과 포도주로 변화되신 하느님의 아들 예수님을 여러분 안에 모시면서 말이죠. 여러분 안에 들어가신 예수님은 본래는 한 분이셨지만, 영성체 이후에는 여러 명의 예수님으로 변신되실 것입니다. 
예를 들면, 나카무라 예수님, 사토 예수님, 스즈키 예수님, 미우라 예수님, 등등. 
이렇게 성체를 받아 모신 여러분도 오늘 복음 말씀에서 빵과 물고기를 배불리 먹은 오천명처럼 아주 만족하게 될 것입니다. 아니, 그보다 더 말로 표현할 수 없을 정도로 행복해 질 것입니다. 제 말 믿어 보세요. 성체를 모신 여러분은 하느님 나라를 통째로 받아 먹은 여러분입니다. 누군가가 여러분에게 하느님 나라가 어디에 있냐고 물으면 이렇게 손가락으로 자기 가슴을 가리켜 대답하세요. 여기에 있다고. 
그러러면 미사에 참여할 기회가 있을 때마다, 혹은 성체를 모실 기회가 있을 때 마다 꼭 참여하셔야 합니다. 
그리고 오늘은 프란치스코 교황님이 발표하신 전세계 조부모와 노인들을 위한 기도의 날입니다. 오늘 교황님께서는 노인들은 자기 손주들에 대하여 모두 신앙의 스승이라고 말씀하셨습니다. 여러분들이 지금까지 살아 온 지혜로 예수 그리스도의 신앙을 여러분의 손주들에게 적극적으로 가르쳐 주십시오. 이것이 바로 오늘기도의 날에 교황님께서 말씀하신 핵심 메시지입니다. 이상입니다. 

 

잠시 묵상하겠습니다. 

 

 

 

 

2021年7月23日金曜日 年間第16金曜日 お説教

単刀直入に、今日の福音のみことばを私がまた簡単に説明します。
まず前提があります。 畑は説教を聞く信者たちの心なのです。 種は神のみことばですね。
1番目、道端にまかれた種は、頑固な心です。 いくら説教を聞いても変化しない態度です。 説教の時、ノートに書く人がいます。 でも書いたらどうするんですか? 説教を聞いても変化しないのに。 聖堂のとびらを出ると、考え方は未信者たちと同じだけど。 書かないでください。 むしろノートに記録しないで心に記録してください。
2番目、石だらけのところにまかれた種は、傲慢な心です。 上と同じように説教を聞くその瞬間は感動しますが、考え方は未信者と同じなので、自分が何を聞いたのかすら覚えていません。 特にこれらは傲慢な心に満ちていて司祭が説教をし、アドバイスをしても全然聞かない人を指します。 むしろ怒って自分が話して行動するのが無条件正しいと考えます。
その前では「はい、神父様のおっしゃるとおりです」と言って、神父がいないところでは陰口をたたきます。
3番目、いばらの中にまかれた種は、悩み、心配などでいっぱいな人です。 そして、周りの人々に傷つけられた人々なのです。 傷を意識する人もいますが、時間が経って今は意識していないけど、無意識に傷を持っている人たちです。 その傷、悩み、心配のために神のみことばを聞けません。 神のみことばが自分の心に入る所がありません。 入ってきてすぐに出て行ってしまいます。
4番目は、謙虚な心で生きている人たちです。 彼らは周りの人々によく踏まれて生きている人たちです。 つまり、彼らは塩のように共同体の中に溶け込み、人をより引き立たせている人々なのです。

こうして我々は、4番目の心で生きていかなければならないのではないでしょうか? つまり、他人を尊重する謙遜なイエス様の弟子たちになるべきではないでしょうか?

단도직입적으로 오늘 복음 말씀을 제가 다시 간단하게 말씀드리겠습니다.
먼저 전제가 있습니다. 밭은 강론을 듣는 신자들의 마음인 것입니다. 씨는 하느님의 말씀이죠.
첫째, 길에 뿌려진 씨앗은, 고집 센 마음입니다. 아무리 강론을 들어도 변화되지 않는 태도입니다. 강론 때 자꾸 노트에 쓰는 사람들이 있습니다. 그런데 쓰면 뭐합니까? 강론을 듣고도 변화하지 않는데. 성당 문을 나가면 사고방식은 미신자들과 똑같은데 말입니다. 쓰지 마십시오. 차라리 노트에 기록하지 말고 마음에 기록하십시오.
둘째, 돌밭에 뿌려진 씨앗은, 교만한 마음입니다. 위와 마찬가지로 강론을 듣는 그 순간은 감동을 받지만, 사고방식은 미신자와 똑같기 때문에 자기가 뭘 들었는지 조차 기억하지 못합니다. 특히 이들은 교만한 마음이 가득하여 사제가 강론을 하고 훈계를 해도 전혀 듣지 않는 이들을 가리킵니다. 오히려 화를 내며 자기가 말하고 행동하는 것이 무조건 옳다고 여깁니다.
그 앞에서는 "네, 네, 신부님 말씀이 옳습니다" 하고, 사제가 없는 자리에서는 뒷담화를 합니다.
셋째, 가시덤불 속에 뿌려진 씨앗은, 근심, 걱정으로 가득찬 사람입니다. 그리고 주변 인간들에게 상처받은 사람들입니다. 상처를 의식하는 이들도 있지만 시간이 지나 지금은 의식하지는 않지만 무의식적으로 상처를 가지고 있는 사람들입니다. 그 상처, 근심, 걱정 때문에 하느님의 말씀을 듣지 못합니다. 하느님의 말씀이 자기 마음에 들어올 곳이 없습니다. 들어왔다가 이내 나가버립니다.
넷째는 겸손한 마음으로 살아가는 사람들입니다. 이들은 주변 사람들에게 많이 밟히고 사는 사람들입니다. 즉, 이들은 소금과 같이 공동체 안에 녹아들어 다른 사람을 더 돋보이게 하는 사람들인 것입니다.

이렇게 우리 모두는 네번째의 마음으로 살아가야 하지 않겠습니까? 즉, 타인을 존중하는 겸손한 예수님의 제자들이 되어야 하지 않겠습니까?

 

 

 

 

2021年7月21日水曜日 年間第16水曜日 お説教

説教を聞く信者たちは、イエス様がおっしゃったようにだいたい4種類の人々に分けられます。
1番目、説教を聞いたとたん、すぐに忘れてしまうスタイルの人々がいます。 片耳で聞いて片耳で流す人々です。 彼らは、説教の時間に一体何を聞いたか到底覚えていない人々なのです。
2番目、説教を聞いて「ああ、いい言葉だ」と感動をしますが、これらも記憶喪失という症状を患っている人たちです。
3番目、説教を聞きますが、説教よりも自分が今していることがより重要で説教の時間に何度も他のことを考える人を指します。
1番目、2番目、3番目の種類の人たちは聖堂だけで信者であって、聖堂の玄関を出ると未信者と同じ人間なのです。未信者が考える価値観通りに考えて生きる人々だということです。
彼らは、ご聖体の秘跡の重要性を知らず、今、自分たちがどれほど霊的に飢えているか知らない人々です。
霊的に命のご飯が食べられず、お腹がすいていてもその空腹を全く感じなかったり、あるいは『私、お腹がすいていますよ。 神父様、ご飯をください。 命のごはんをください」とも言えない人々なのです。 ただ、周りの人に迷惑がかけるのではないかと、自分が言いたいことも言えない人たちなのです。
最後にイエス様がおっしゃる種類の4番目の人々はミサや集会祭儀の機会があるたびに必ず与って、またミサや集会祭儀がない時にもよくご聖体を訪問して、しばしば福音のみことばと使徒たちの手紙を読んで黙想し、そのみことば通り毎日少しずつ実践して生きる人々なのです。 この人たちは未信者たちと一緒に過ごす時も、常に十字架のしるしの祈りをする習慣を持った人たちなのです。

それでは、皆さんはいったいどの種類の人々ですか。

강론을 듣는 신자들은 예수님이 말씀하신 것처럼 대충 네 부류로 나눌 수 있습니다.
첫째, 강론을 듣는 순간 바로 잊어 먹는 스타일의 사람들이 있습니다. 한쪽 귀로 듣고 한쪽 귀로 흘려 내 보내는 사람들입니다. 이들은 강론 시간에 도대체 무엇을 들었는지 도저히 기억을 못하는 사람들인 것입니다.
둘째, 강론을 듣고 '아, 좋은 말씀이다'하고 감동을 받지만, 이들도 기억 상실증 이라는 증상을 앓고 있는 사람들입니다.
셋째, 강론을 듣지만 강론 보다 자기가 지금 하고 있는 일이 더 중요해서 강론 시간에 자꾸 딴 생각을 하는 사람들을 가리킵니다.
이 첫째, 둘째, 셋째 부류의 사람들은 성당에서만 신자이지, 성당 현관을 나가면 미신자들과 똑같은 사람들인 것입니다. 즉, 미신자들이 생각하는 가치관 그대로 생각하며 사는 사람들이란 것입니다. 이들은 성체 성사의 중요성도 모르고, 지금 본인들이 얼마나 영적으로 굶주려 있는지 모르는 사람들입니다. 영적으로 생명의 밥을 먹지 못해 배고파도 그 배고픔을 전혀 느끼지 못하거나 혹은 "나, 배고파요. 신부님, 밥좀 주세요. 생명의 밥 좀 주세요"라고 청하지도 못하는 사람들인 것입니다. 그저 주위 사람들에게 민폐 끼칠까봐 자기가 하고 싶은 말도 하지 못하는 사람들인 것입니다.

마지막으로 예수님이 말씀하신 부류의 네번째 사람들은 미사나 말씀 전례의 기회가 있을 때 마다 반드시 참례하고, 또 미사나 말씀 전례가 없을 때에는 자주 성체를 방문하며, 틈틈이 복음 말씀과 사도들의 편지를 읽고 묵상하며, 그 말씀대로 조금씩 실천하며 사는 사람들인 것입니다. 이 사람들은 미신자들과 지낼 때도 늘 십자성호를 그으며 기도하는 습관을 지닌 사람들인 것입니다.

자, 여러분은 과연 어느 부류의 사람들이십니까?

 

 

 

 

2021年7月19日月曜日 年間第16月曜日 お説教

律法学者とファリサイ派の人々が、また難癖をつけます。 今回はしるしを見せてほしいそうです。
何とかして自分たちより民に人気のある救い主を取り除くために一生懸命努力していますね。 殺す名分を作るために一生懸命努力する彼らです。
イエス様は絶対に反対者たちが望む通り移ることはなかったです。
ヨナのしるしを例にとってあなたご自身の死を予告しました。
「あなたたちに見せるしるしなどない。 わたしを救い主とも信じてないくせに。ただし、 後日、わたしが死んでからどう復活するのか、よく見届けろ」という意味でおっしゃったのです。
最後にイエス様はとても重要なことをおっしゃいました。
ニネベの人々がヨナの説教だけを聞いて悔い改めて救われた事実を例に挙げ、ヨナよりもっと大きい、つまり救い主のしるしを見ても悔い改めなければ、後日最後の裁きの時に神を知らなかった他の民族出身の南の国の女王が復活して救い主を迫害した人々を断罪するだろうと警告しました。
これは私たちにも同じように適用されるみことばです。
このコロナの時期に、私たちはコロナが早く治まることを望む奇跡を望んでいるかもしれませんね。 しかし、この時期にいざ毎日起きる奇跡が一つあります。 まさにご聖体の秘跡です。 私たちはミサに与る度に奇跡を体験します。 ところで、この最も偉大な奇跡は、無関心でありながら、他の奇跡を望むのは、今日の福音に登場した律法学者とファリサイ派の人々と違いがないということです。
奇跡がほしいですか。 それなら、ご聖体の秘跡にたびたび与って、ご聖体をたびたび訪問してください。 そしてご聖体の中にいらっしゃるイエス様が教えてくださった福音のみことばを信じて実践する悔い改める生活を生きてください。

今日の福音のみことばの核心メッセージでした。しばらく黙想しましょう。

율법학자와 바리사이파 몇 사람들이 또 트집을 잡습니다. 이번에는 표징을 보여달라고 합니다.
어떻게든 자기네들보다 백성들에게 인기가 많은 구세주를 제거하기 위해 열심히 노력하고 있네요. 잡아 죽일 명분을 만들기 위해 열심히 노력하는 그들입니다.
예수님께서는 절대로 반대자들이 원하는 대로 넘어가지 않으셨어요.
요나의 표징을 예로 들면서 당신의 죽음을 예고하셨습니다.
"너희들에게 보여줄 표징 따위는 없다. 나를 구세주로 믿지도 않으면서. 다만, 나중에 내가 죽고 나서 어떻게 다시 살아나는지 잘 지켜 보아라"라는 뜻에서 말씀하신 것입니다.
마지막에 예수님께서는 아주 중요한 말씀을 하셨습니다.
니네베 사람들이 요나의 설교만 듣고 회개하여 구원받았던 사실을 예로 드시며, 요나보다 더 큰 이, 즉 구세주의 표징을 보고도 회개하지 않으면, 훗날 마지막 심판 때에 하느님을 알지 못했던 다른 민족 출신인 남방 여왕이 부활하여 구세주를 박해했던 사람들을 단죄할 것이라고 경고 하셨습니다.
이는 우리에게도 마찬가지로 적용되는 말씀입니다.
이 코로나 시기에 우리는 코로나가 빨리 수습되기를 바라는 기적을 원할 지도 모르겠습니다. 하지만 이 시기에 정작 매일 일어나는 기적이 하나 있습니다. 바로 성체성사입니다. 우리는 미사에 참여할 때 마다 기적을 체험합니다. 그런데 이 가장 위대한 기적은 무관심하면서 다른 기적을 또 바라는 것은 오늘 복음에 등장한 율법학자와 바리사이파 몇 사람들과 다를 바가 없다는 것입니다.
기적을 원하십니까? 그렇다면 성체성사에 자주 참여하시고 성체를 자주 방문하십시오. 그리고 성체 안에 계신 예수님께서 가르쳐 주신 복음 말씀을 믿고 실천하는 회개하는 생활을 살아가십시오.

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年7月18日日曜日 年間第16主日 お説教

皆さん、今日の典礼のみことばの核心メッセージを短く簡単に申し上げます。
今日のみことばの話題は「本当に優しいイエス様」です。
特に、今日の福音のみことばで、私はイエス様に大きな感動を受けました。 イエス様は宣教旅行から帰って来た弟子たちに「お疲れ様だからこれからわたしのそばに休みなさい」とおっしゃったからです。
そしてイエス様と弟子たちが群衆のそばを離れて人里離れた所に行った時にたくさんの群衆が尋ねて来たのを見て彼らに向けて憐れみが満ちた視線を見せてくださったということ、そして続いて彼らに神の国に関するたくさんのことを教えてくださったということです。
このお話は、必ずその時代、十二人の使徒たちと群衆だけに当てはまるものではありません。 現代を生きる私たちにも同じように該当すると思います。
この世の人生が大変なので、あなたご自身のそばに来て「安らぎを持ちなさい」とおっしゃるイエス様の慈しみ深い姿が、皆さんは感じませんか? その優しい目、それで今日も相変わらず私たちにあなたご自身の命を授けるために丸くて白いパンの形で来るイエス様の愛が、皆さんは感じませんか?
この愛がもし感じられなかったら、皆さんは霊的に鈍くなってしまったという証拠です。 でも、大丈夫です。 今からでもパンの形でいらっしゃる生きておられるイエス様をお好きになってください。 ご聖体でいらっしゃるイエス様を愛してください。
もう一度言います。 今からでも遅くありません。 イエス様を愛してください。 イエス様をお好きになってください。
イエス様が好きになりたいなら、たびたびイエス様を訪問してください。 ご聖体をたびたび訪問し、福音のみことばの中にも生きておられるイエス様をたびたび訪問してください。
たびたび訪ねていかないと、好きな気持ちも、愛する気持ちも生じません。 目から離れると心からも離れるという言葉があります。
本当に皆さんは そうなってほしいですか?
イエス様と関係を切りたいですか。 今日、今このように憐れみに満ちた視線で私を見つめているイエス様に、もっと積極的に訪ねて行かなければなりませんか。コロナだにもかかわらず。 コロナが何の関係がありますか? むしろこの機会がイエス様をたくさん愛する機会になってほしいです。

しばらく黙想しましょう。

여러분, 오늘 전례의 말씀의 핵심 메시지를 짧고 간단하게 말씀드리겠습니다.
오늘 말씀의 주제는 '참 좋으신 우리 예수님'입니다.
특히,  오늘 복음 말씀에서 저는 우리 예수님에게 큰 감동을 받았습니다. 예수님께서는 선교 여행을 떠났다가 돌아온 제자들에게 "수고가 많았으니 이제는 내 곁에서 쉬어라" 라고 말씀하셨기 때문입니다.
그리고 예수님과 제자들이 군중들 곁을 떠나 외딴 곳으로 갔을 때에 많은 군중이 찾아온 것을 보고 그들을 향해 연민이 가득한 시선을 보여 주셨다는 것, 그리고 이어서 그들에게 하느님 나라에 관한 많은 것을 가르쳐 주셨다는 것입니다.
이 이야기는 꼭 그 시대, 열 두 사도들과 군중에게만 해당되는 것은 아닙니다. 현대를 살아가는 우리에게도 마찬가지로 해당된다고 생각합니다.
세상의 삶이 너무 힘드니 당신 곁에 와서 안식을 가지라고 말씀하시는 예수님의 인자한 모습이 여러분은 느껴지지 않습니까? 그 자상한 눈빛, 그래서 오늘도 여전히 우리에게 당신의 생명을 주시기 위해 이 동그랗고 하얀 빵의 형태로 우리에게 오시는 예수님의 사랑이 여러분은 느껴지지 않습니까?
이 사랑이 만일 느껴지지 않는다면 여러분은 영적으로 둔해져 있다는 증거입니다. 그러나 괜찮습니다. 지금부터라도 빵의 형태로 오시는 살아계신 예수님을 좋아하시면 됩니다. 성체로 오시는 예수님을 사랑하시면 됩니다.
다시한번 말합니다. 지금이라도 늦지 않았습니다. 예수님을 사랑하십시오. 예수님을 좋아하십시오.
예수님을 좋아하려면 자주 예수님을 방문하시면 됩니다. 성체를 자주 방문하고, 복음 말씀 안에도 살아계신 예수님을 자주 방문하십시오. 자주 찾아 가지 않으면 좋아하는 마음도, 사랑하는 마음도 생기지 않습니다. 눈에서 멀어지면 마음에서도 멀어진다는 말이 있습니다.
정녕 여러분은 그렇게 되길 바라십니까? 예수님과 관계를 끊고 싶으십니까? 오늘 지금 이렇게 연민 가득한 시선으로 나를 바라보시는 예수님에게 더욱 적극적으로 찾아가도록 해야 하지 않겠습니까? 코로나임에도 불구하고. 코로나가 무슨 상관이 있습니까? 오히려 이 기회가 예수님을 많이 사랑하는 기회가 되길 바랍니다.

잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年7月16日金曜日 年間第15金曜日 お説教

今日の福音を読む前に知っておくべき背景知識があります。 ユダヤの律法には安息日に30以上の禁止条項があります。 その中で安息日に収穫をしてはならないという条項があります。
今日の福音で、ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちがお腹がすいて麦の穂を摘んで食べる行為を持って安息日には収穫をするなと言いましたが、なぜイエス様の弟子たちは安息日にしてはいけないことをしているのか、と難癖をつけました。
これを見て、揚げ足を取るのだと言います。ファリサイ派の人々は、何とか揚げ足を取ってイエス様を捕まえようと、こんな風にケンカを売ってきました。
誰かが気に入らなければ、よく人はこのような名分を掲げて指摘したりします。 これは、どの共同体でもよく起こる現象と言えます。 私たちの共同体も例外ではないと思います。
自分で自分の良心に手を当てて反省してみましょう。 私は、私たちは気に入らないからといって罪のない人たちを断罪したり、勝手に判断してしまったことはなかったのか、
そして、このようなことが二度と起こらないように注意しなければなりません。
そしてイエス様がおっしゃった最後のみことばを忘れてはいけません。 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と。
お互いに慈しみ深い人になってあげましょう。 自分もよく罪を犯せる可能性が高いことを自分で悟るなら、他人の罪に対してより寛大になりませんか? 私自身も、罪を犯した時、他人に無条件赦されるのを望むように、他人が私に罪を犯したことも、無条件赦してあげなければなりません。
もし、赦してくれず他人に寛大でなかったら、後日、父である神様も私に寛大に接しません。

今日の福音のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

오늘 복음을 읽기 전에 알아야 할 배경 지식이 있습니다. 유대인 율법에는 안식일에 서른 가지 이상의 금지 조항이 있습니다. 그 중에서 안식일에는 추수를 하지 말라는 조항이 있습니다.
오늘 복음에서 바리사이파 사람들은 예수님의 제자들이 배가 고파서 밀 이삭을 뜯어 먹는 행위를 갖고 안식일에는 추수하지 말라고 했는데, 왜 예수님의 제자들은 안식일에 해서는 안되는 일을 하고 있냐며 트집을잡았습니다.
이걸 보고 꼬투리 잡는 것이라고 합니다. 바리사이파 사람들은 어떻게든 꼬투리를 잡아서 예수님을 체포하려고 이런 식으로 시비를 걸었습니다.
누군가가 자기 마음에 들지 않으면 흔히 사람들은 이런 식으로 명분을 앞세워 꼬투리를 잡아 지적을 하곤 합니다. 이는 어느 공동체를 가든 흔히 일어나는 현상이라고 할 수 있습니다. 우리 공동체도 예외가 아니라고 생각합니다.
스스로 양심에 손을 얹고 반성해 봅시다. 나는, 우리는 내 마음에 들지 않는다 하여 죄 없는 이들을 단죄하거나 제 멋대로 판단 해 버린 일은 없었는지,
그리고 이런 일이 두번 다시 일어나지 않도록 늘 주의해야 하겠습니다.
그리고 예수님께서 말씀하신 마지막 말씀을 잊지 말아야 하겠습니다. "내가 바라는 것은 희생 제물이 아니라 자비다."
서로에게 자비로운 사람이 되어 줍시다. 자기도 자주 죄 지을 수 있는 가능성이 아주 높다는 것을 스스로 깨닫는 다면, 타인의 죄에 대해 보다 관대해 지지 않겠습니까? 나 자신도 죄를 지었을 때 다른 사람들에게 아무 조건 없이 용서를 받기 원하는 것처럼, 다른 사람이 내게 죄를 지은 것도 아무 조건 없이 용서해 주어야 하겠습니다.
만일 용서해 주지 않고 남들에게 관대하지 못하다면 훗날 하느님 아버지도 나에게 관대하게 대하지 않을 것입니다.

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年7月14日 年間第15水曜日 お説教

今日の福音のみことばは、昨日の福音のみことばの延長です。
イエス様は昨日山の上に登ってコラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町を叱りました。
なぜイエス様はこの町をお叱りになりましたか? それはイエス様が数多くの話をして奇跡を見せてくださったにもかかわらず彼らはいざ無関心だったからです。
つまり、無関心だったか、イエス様に受けた恵みを忘れてしまったためです。
後日、裁きの日に赦されない大きいな罪が、まさにこの無関心と受けた恵みを記憶せずに忘れてしまう罪ではないかと思います。だから気をつけてください。 皆さん、無関心しないで、自分が受けた恵みを忘れないようにしてください。
反面、今日の福音のみことばでは、イエス様が誰かを非常にたくさん褒めました。 コラジン、ベトサイダ、カファルナウム全体を叱りましたが、その村にはたとえ少ない数字であってもそれでもイエス様が神の子ということを受け入れた人々がいたということです。 まさに子供のようにイエス様に受けられた恵みを記憶し、感謝しながら生きる人々です。
神の前では最も重要な態度が、ほかでもなく子供のようになるのです。 自分が賢いと言ってもどれだけ賢いでしょうか。 自分が知恵があると言ってもどれだけ知恵がありますか。 世の中では博士, 教授といえども彼らも知らないことだらけです。 神と比べてみてください。 いや、神と比べることができますか? 比べさえもできません。 だから高慢しないで子供のように神のみことばだけを聞いてください。 神のみことばだけを記憶してそのみことばを隣人に伝えながら生きるようにしてください。

今日の福音のみことばの核心メッセージでした。しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀은 어제 복음 말씀의 연장입니다.
예수님께서는 어제 산 위에 올라 가셔서 코라진, 베싸이다, 가파르나움 이란 동네를 꾸짖으셨습니다. 왜 예수님께서는 이 동네들을 꾸짖으셨을까요? 그것은 다름아닌 예수님께서 수많은 말씀을 하시고 기적을 보여주셨음에도 불구하고 그들은 정작 무관심하였기 때문입니다.
즉, 무관심하였거나, 예수님께 받은 은혜를 잊어 버렸기 때문입니다.
훗날 심판 날에 용서받지 못할 가장 큰 죄가 바로 이 무관심과 받은 은혜를 기억하지 못하고 잊어 버리는 죄가 아닌가 하고 생각합니다. 그러니 주의하십시오. 여러분. 무관심하지 마시고, 내가 받은 은혜를 잊어 버리지 않도록 하십시오.
반면에 오늘 복음 말씀에서는 예수님께서 누군가를 아주 많이 칭찬하셨습니다. 코라진, 베싸이다, 가파르나움 전체를 꾸짖으셨지만, 그 마을에는 비록 적은 숫자지만 그럼에도불구하고 예수님이 하느님의 아들이심을 받아들인 이들이 있었다는 것입니다. 바로 어린이처럼 예수님께 받은 은혜를 기억하고 감사하며 사는 사람들입니다.
하느님 앞에 서는 가장 중요한 태도가 다름 아닌 어린이처럼 되는 것입니다. 자기가 똑똑해봤자 얼마나 똑똑하겠습니까? 자기가 지혜로워봐야 얼마나 지혜롭겠습니까? 세상에서는 박사, 교수라고 할지라도 그들도 모르는 것 천지입니다. 하느님과 비교해 보십시오. 아니 하느님과 비교할 수 있습니까? 비교조차 못하죠. 그러므로 자만하지 말고, 교만하지 말고 어린이처럼 하느님 말씀만 들으십시오. 하느님 말씀만 기억하고 그 말씀을 이웃에게 전하며 살도록 하십시오

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다. 잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年7月12日 月曜日 年間第15月曜日 お説教

今日の福音のみことばは、本当に分かりにくいです。 イエス様がこの世にいらっしゃった理由はすなわち、平和ではなく、剣をもたらすために来たのだとおっしゃったからです。
ところが、じっくり考えてみると間違ったのではありません。 現代を振り返ってみてください。 イエス様のみことば通り、もし生きていくと思ってみてください。 一日も生きられないでしょう。
どうして簡単に私を傷つけてくれた人を赦してあげられ、財産をふやさないことができますか。 食べては生きないといけません。 世の中は、私が生きてこそ生きることだと言うのに、イエス様がおっしゃった福音は私が死に、他人が生きてこそ生きることだそうです。
皆さんはイエス様がおっしゃった福音を100%納得しますか?
我々も、正直に言うと納得しにくいのに、世の中の人々は敢えて聞かなくても分かりますよね?
そのため、互いに分裂するとイエス様はおっしゃいました。 いくらよい神の国の話だとしても、自分が納得しにくいことは受け入れられないということです。 頭でも理解できないのに、まして実践は不可能ですね。
このように真理を受け入れる者とそうでない者が分かれるのは、当然の結果でしょう。 家族関係でも見ると、子供が親の言う通りに100%住んでいないことと同じだからです。
でも、たとえ納得しにくい福音のみことばだとしても、主である神様だけを信じて最後まで信仰を裏切らない人たちは幸せだとおっしゃいました。 しかもこのような人たちに冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ず神様に褒められるとおっしゃいました。
例えば、殉教者たちを思い出してください。 家族が反対し、国が反対し、共に暮らす部族が反対しても、殉教者たちは最後まで信仰を捨てませんでした。 そして、死で自分の信仰を証ししました。 彼らが信仰を証しした結果が今どのようになりましたか。 全世界の信者たちが敬う聖人聖女たちになったんじゃないですか。
ですから、私たちも家族が反対し、友達が反対しても、国が反対しても、わが主イエス·キリストの福音のみことばを最後まで忠実に守り、生きるようにしなければなりません。

しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀은 참 이해하기 어렵습니다. 예수님께서 이 세상에 오신 이유는 다름 아닌 평화가 아니라 칼을 주러 왔다고 하셨기 때문입니다.
그런데 곰곰이 생각해 보면 틀린 말은 아닙니다. 현대를 돌아 보십시오. 예수님의 말씀대로 만일 살아간다고 생각해 보십시오. 하루도 살 수 없을 것입니다. 어떻게 쉽게 내게 상처 준 사람을 용서해 줄 수 있으며, 재산을 불리지 않을 수 있겠습니까? 먹고는 살아야죠. 세상은 내가 살아야 사는 것이라고 말하는데, 예수님께서 말씀하신 복음은 내가 죽고 타인이 살아야 사는 것이라고 합니다.
여러분은 예수님께서 말씀하신 복음을 100% 납득하십니까?
우리도 사실은 솔직히 말하면 납득하기 어려운데 세상 사람들은 굳이 물어보지 않아도 압니다. 그죠?
그렇기 때문에 분열된다고 예수님께서 말씀하셨습니다. 아무리 좋은 하느님 나라 이야기라고 할지라도 자기가 납득하기 어려운 것은 받아들일 수 없다는 것입니다. 머리로도 이해가 되지 않는데 하물며 실천은 불가능하겠죠.
이렇게 진리를 받아들이는 이와 그렇지 못하는 이들이 갈라지는 것은 어쩌면 당연한 결과일 것입니다. 가족관계에서도 보면 자녀가 100% 부모의 말대로 살지 않는 것과 마찬가지라고 할 수 있습니다.
하지만 비록 납득하기 어려운 복음 말씀이라고 하더라도 주 하느님만 믿고 끝까지 믿음을 저버리지 않는 사람들은 행복하다고 말씀하셨습니다. 심지어 이런 사람들에게 시원한 물 한잔이라도 주는 사람은 반드시 하느님에게 칭찬을 받을 것이라고 말씀하셨습니다.
대표적인 예로 순교자들을 떠올려 보십시오. 가족이 반대하고 나라가 반대하고 함께 사는 부족이 반대해도 순교자들은 끝까지 믿음을 버리지 않았습니다. 그리고 죽음으로 믿음을 증거했습니다. 그들이 믿음을 증거한 결과가 지금 어떻습니까? 전세계 모든 신자들이 존경하는 성인 성녀들이 되었지 않습니까?
그러므로 우리도 가족이 반대하고 친구가 반대하고 나라가 반대해도 우리 주 예수 그리스도의 복음 말씀을 끝까지 충실하게 지키며 살도록 해야 하겠습니다.

잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

2021年7月11日日曜日 年間第15主日 お説教

今日の福音のみことばについて簡単に要約すると、次のとおりです。
その前に前提があります。 洗礼の秘跡を受けたカトリック教会の信者たちはみんな福音宣教師だということです。
イエス様は福音宣教師の弟子たちに、次のようにおっしゃいました。
一番目、福音宣教師たちは持っているのが少なければ少ないほどいいということです。 そうすれば、あちこちを歩き回って福音を伝えることができるからです。 もし、持っているものが多いと移動するとき荷物をまとめるのに無駄な力と時間を無駄にするからです。
二番目、二人ずつ組にして派遣しました。 一人では非常に危ないからです。 それで、辛いたびに互いに頼れるように2人ずつ組にして派遣したのです。
三番目、弟子たちには自分の家がありません。 それで、ある地域に行けばその地域に留まるしかありません。 地元の人々が喜んで宣教師が留まる家を用意すれば喜んで受け入れよということです。 しかし、その地域の人々がもし宣教師を排斥すれば、未練なくそのところを離れても構わないという意味です。
ひたすら宣教師たちがすべきことは、その地域の人々に悔い改めを告げ、悪魔を追い払って、病者を治さなければならないということだけです。
これが、まさに今現在の司祭たちのしていることであり、私たち信者たちも、自分の地域で自分の財産に欲を出さず、信者同士で支え合い、誰かが排斥すれば、心を傷つけず、排斥するままにしておき、ただ自分が洗礼を受けたとき受けた使命である生活の実践としての福音の実践と、毎日の悪魔を追い払うの祈り、そして心や体の痛い他の信者や隣人のそばにいてくれて、彼らを治してあげなければならないということです。
ちなみに皆さん、悪魔を追い払うの祈りはどうするのかご存知ですか?
私が教えてあげます。 簡単です。私についてやってみてください。
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
ナザレイエス·キリストのみ名によって命じる。(もし皆さんが憂鬱な状態なら)憂鬱な悪魔よ、さっさと退け。 イエス·キリストのところに行け。
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
終わりです。簡単ですよね?
ですから、今日の福音のみことばでイエス様がくださった3つの
力、つまり、福音の実践、悪魔を追い払うこと、癒すことを持って、皆さんの生活環境で積極的に生きていくようにしましょう。
しばらく黙想しましょう。

오늘 복음 말씀을 쉽고 간단하게 요약하여 말씀드리면 다음과 같습니다.
그 전에 전제가 있습니다. 세례받은 가톨릭 교회 신자들은 다 복음 선교사들이란 것입니다.
예수님께서는 복음 선교사들인 제자들에게 다음과 같이 말씀하셨습니다.
첫째, 복음 선교사들은 가진 것이 적으면 적을수록 좋다는 것입니다. 그래야 이곳 저곳을 다니며 복음을 전할 수 있기 때문입니다. 만일 가진 것이 많으면 이동할 때 짐싸고 짐 푸는데 쓸데없는 힘과 시간을 낭비하기 때문입니다.
둘째, 둘씩 짝지어 파견 하셨습니다. 혼자는 매우 위험하기 때문입니다. 그래서 힘들 때 마다 서로 의지할 수 있도록 두 명씩 짝을 지어 파견 하셨던 것입니다.
셋째, 제자들은 자기 집이 없습니다. 그래서 어느 지역에 가면 그 지역에 머무를 수밖에 없습니다. 만일 그 지역 사람들이 기꺼이 선교사들이 머무를 집을 마련해 주면 기꺼이 받아들이라는 것입니다. 하지만 그 지역 사람들이 만일 선교사들을 배척하면 미련 없이 그 곳을 떠나도 된다라는 뜻입니다.
오직 선교사들이 해야 할 일은 그 지역 사람들에게 회개를 선포해야 하고, 마귀를 쫓아 내 주어야 하며, 병자들을 치유해 주어야 한다는 것입니다.
이것이 바로 오늘날 사제들이 하고 있는 것이며, 우리 신자들도 자기 지역에서 소유 없이, 재산에 욕심 내지 않고, 교우들끼리 서로 의지하며, 누가 배척하면 마음의 상처 받지 말고 배척하는 대로 내버려 두고, 오직 자기가 세례 성사 때에 받은 사명인 생활의 실천으로서의 복음 실천과 매일 구마 기도, 그리고 마음이나 몸이 아픈 다른 교우나 이웃의 곁에 있어 주어 그들을 낫게 해주어야 한다는 것입니다.
참고로 여러분, 구마기도는 어떻게 하는지 알고 계십니까?
제가 가르쳐 드리겠습니다. 간단합니다. 따라 해 보세요.
성부와 성자와 성령의 이름으로 아멘.
"나자렛 예수 그리스도의 이름으로 명령한다. (만일 여러분이 혹시 우울한 상태라면) 우울한 마귀야, 썩 물러가라. 예수 그리스도에게로 가라."
성부와 성자와 성령의 이름으로 아멘.
끝입니다. 간단하죠?
그러므로 오늘 복음 말씀에서 예수님께서 주신 세 가지
능력, 복음 실천, 구마, 치유를 가지고 여러분의 생활 환경에서 적극적으로 살아가도록 합시다.
잠시 묵상하겠습니다.

韓国 ウィジョンブ教区の海外宣教師 派遣式

 

 

 

 

 

2021年7月9日金曜日 年間第14金曜日 お説教

昔からカトリック教会の信者たちには迫害が常にありました。 最初カトリック教会が入ってきた時は、物理的な迫害がありました。 つまり、カトリック教会の信者たちは皆捕まり、拷問を受け、殺されなければなりませんでした。
今現在でも迫害は相変わらず存在します。 現代には、昔のような迫害は存在しないけど、迫害は存在します。
迫害というのは何の意味ですか。
「迫害」は人が神様に向かって進むことを妨げるすべてのことです。 例えば,家族の間にも迫害は存在します。 「今コロナなのでいきなり教会に行くな」ということも含めて一人でも私の心の中で「あぁ教会に行きたくないな」とか「面倒くさい」という気持ちが起きたらこれもやはり迫害だということです。
その他にもたくさんあります。 ここで重要なのは、すべての迫害の中心には常に悪魔がいるということです。 悪魔の目標は、人間が神に行くことを防ぐことなのです。 悪魔は人間が神に愛されることを大嫌いからです。 悪魔は人間を憎悪します。だから、現在も相変わらず迫害を起こしているのが悪魔だということです。
しかし、今日の朗読と福音のみことばの中で、我々はこのような迫害があるにもかかわらず、神様は相変わらず我々と一緒にいてくださるということです。 未知の地へ旅立つヤコブを安心させてくださったように、そして福音を伝える途中に迫害が来た時、福音宣教者が反対者の前でひるまず話すことができるように、一緒にいてくださるとおっしゃったイエス様を見ても、私たちは安心することができるのです。
ですから皆さん、私の中に、そして私の周りから神様に行くのに邪魔になることがあっても、怖がらないでください。 神様が皆さんと一緒にいてくださるからです。 怖がらないためには、その瞬間に祈ることが一番の解決策なのです。
射祷の祈りをよくする習慣を持ってください。 例えば、「主よ、不安な心を取り除いてください」だとか、または「主よ、怖がらないようにしてください」など。
分かりましたか?
しばらく黙想しましょう。

옛날 부터 천주교 신자들에게는 박해가 늘 있었습니다. 처음에 천주교가 들어온 때에는 물리적인 박해가 있었죠. 즉, 천주교 신자들은 다 잡혀서 고문당하고 죽임을 당해야 했습니다.
오늘날에도 여전히 박해는 존재합니다. 비록 현대에는 옛날과 같은 박해는 존재하지는 않지만, 틀림없이 박해는 존재합니다.
박해라는 것이 무슨 뜻입니까?
박해는 사람이 하느님에게로 가는 것을 방해하는 모든 것을 말합니다. 예를 들면, 가족 간에도 박해는 존재합니다. "지금 코로나 이기 때문에 다짜고짜 성당에 가지마" 라는 것을 포함해서 혼자라도 내 마음 안에서 '아 성당에 가기 싫은데' 혹은 '귀찮아'라는 마음이 일어난다면 이것 또한 역시 박해라는 것입니다.
그 밖에도 참 많이 있죠. 여기서 중요한 것은 모든 박해의 중심엔 늘 악마가 있다는 것입니다. 악마의 목표가 바로 인간들이 하느님에게로 가는 것을 막는 일이거든요. 악마는 인간이 하느님에게 사랑받는 것을 제일 싫어하기 때문입니다. 증오합니다. 그래서 오늘날에도 여전히 박해를 일으키고 있는 것이 바로 악마라는 것이죠.
하지만 오늘 독서와 복음 말씀에서 우리는 이러한 박해가 있음에도 불구하고 하느님께서는 여전히 우리와 함께 계신다는 사실입니다. 미지의 땅으로 떠나는 야곱을 안심시켜 주셨던 것처럼, 그리고 복음을 전하는 도중에 박해가 왔을 때 복음 선포자가 반대자들 앞에서 기죽지 않고 말할 수 있도록 함께 해주시겠다고 말씀해 주신 예수님을 보더라도 우리는 안심할 수가 있는 것입니다.
그러므로 여러분, 내 안에 그리고 내 주변에서 하느님에게로 가는 데 방해가 되는 것이 오더라도 두려워 하지 마십시오. 하느님께서 여러분과 함께 있어 주실 것이기 때문입니다. 두려워하지 않기 위해서는 그 순간 기도하는 것이 제일 좋은 해결책인 것입니다.
예를 들면 화살기도를 자주 하는 습관을 가지십시오. '주님, 불안한 마음을 없애 주십시오'라거나, 혹은' 주님 두려워하지 않게 해주십시오' 등.
아시겠습니까?
잠시 묵상하겠습니다.

 

 

 

 

 

2021年7月5日月曜日 年間第14月曜日 お説教

奇跡が成立するには、2つの条件が必要です。
まず、神がいなければならず、
二つ目は、信仰がなければなりません。
今日の福音のみことばで、下血する女とヤイロはイエス様が癒してくださるという信仰がありました。 将来本人が、あるいは娘がどうなるか、全く分からない状況であるにもかかわらず、福音書に出てきたこの二人は、イエス様の力を信じたのです。 信じたからこそ、癒しやよみがえることの奇跡が体験できたのです。
反面、神様に捧げる奉献で先の条件を提示したヤコブとは比べられません。
今日は、韓国の教会の聖職者たちの守護聖人である聖アンデレキム·デゴン神父様の祝日です。 そして13年前の今日、私はキリストの代理者職分である司祭職分を与えられました。
人間的な弱さを持っていたにもかかわらず、神様は司祭職を与えられたのです。 たとえまだ13年しか経っていませんが, これからもっと熱心に福音を伝え, 主イエス·キリストが作った秘跡を司式することができるように皆さんのたくさんのお祈りをお願いいたします.
これから私たちの未来がどうなるか誰も分からないけど、 神様が私たちと一緒にいらっしゃるという信仰を持ってもう一人のイエスキリストとしてこの皆さんのそれぞれの生活環境で福音を表現して実践するようにこの時間に誓ってみませんか?
しばらく黙想しましょう。

기적이 성립하려면 두 가지 조건이 있어야 합니다.
첫째는 하느님이 계셔야 하고,
둘째는 믿음이 있어야 합니다.
오늘 복음 말씀에서 하혈하는 여자와 야이로는 예수님이 낫게 해 주시고, 또 살려 주실 것이라는 믿음이 있었습니다. 장차 본인이 혹은 자기 딸이 어떻게 될 지 전혀 알 수 없는 상황임에도 불구하고 복음서에 나온 이 두 명은 예수님의 능력을 믿었던 것입니다. 믿었기 때문에 치유와 소생의 기적을 체험할 수 있었던 것입니다.
반면에 하느님께 드리는 봉헌에서 먼저 조건을 제시했던 야곱과는 비교도 할 수 없죠.
오늘은 한국 교회 성직자들의 수호성인이신 성 김대건 안드레아 신부님 축일입니다. 그리고 13년 전 오늘 저는 그리스도의 대리자 직분인 사제 직분을 수여 받았습니다. 정말로 형편없는 인간적인 나약함을 지니고 있음에도 불구하고 하느님께서는 사제직을 주셨던 것입니다. 비록 아직 13년 밖에 되지 않았지만, 앞으로 더 열심히 복음을 전하고, 주님께서 만드신 성사를 집전할 수 있도록 여러분들의 기도 많이 부탁드립니다. 앞으로 우리의 미래가 어떻게 될지 아무도 모르지만, 하느님께서 우리와 함께 계신다는 믿음을 갖고 또 한명의 예수 그리스도로 이 세상에 각자의 생활 환경에서 복음을 표현하며 실천하도록 이 시간에 다짐해 보지 않겠습니까?
잠시 묵상하겠습니다.

2021年7月4日日曜日 年間第14主日

(故郷)。皆さんは故郷と言ったらどんな気がしますか。
私は懐かしさ? あるいは早く帰りたいというのを思い出しますね。
故郷に行くと、子供の頃遊んでいた場所、通っていた道、出会った人たちが思い出されます。 皆さんもそうですか?
イエス様も見知らぬ町で宣教生活をされた時、故郷をたくさん思い出したようですね。 しかし、いざ行った時、イエス様はどのような扱いを受けましたか?
はい、今日の福音のみことばでお聞きになったように故郷の人から排斥されました。
それでは、今日の福音のみことばで我々は何を学べられますか?
私は、神の子という方も排斥されたのだということを分かりました。 だから、もし私たちの中に誰かに嫌われ2021年7月4日日曜日 年間第14主日ら。
私も故郷に帰りたいですね。 でもいざ世の中の故郷に帰ると、今は知り合いもいないし、思ったより感動も少ないかもしれませんね。 しかし、わが信者たちにとって永遠の心の故郷がありますよね。 そこはどこですか? はい、まさに神の国です。 違いますか? 我々は、我々の心の故郷である神の国を思い出しながら生きているじゃないですか? 私は私たちの永遠の心の故郷に帰れば、会いたかった人たちにも会えるような気がしますね。
私たちの夢を見てみましょう。 早く神の国に帰りたい、そんな夢です。 神の国に帰って、これまで会いたかった人たちに会って永遠に別れずに生きる、そんな夢を一度見てください。 素敵じゃないですか?
信者たちの夢は、永遠の心の故郷である神の国に帰ることではなく何でしょうか?
だから、その神の国に行くにはどうすればいいですか? ミサにもよく参加し、聖体もたびたび迎えて聖体もしばしば訪問し、神のみことばに従って生きるように一生懸命努力しなければならないでしょう?
そしてコロナを、 あまり怖がらないでください。 お年寄りの皆さんはワクチンも接種したでしょうし、マスクをしっかりつけて人と2m間隔を置けば大丈夫ですから、あまり怖がらなくても大丈夫ですよ。
今私たちがすべきことは、私たちみんなが神の国に帰らなければならないのですから、今からでも積極的に施し、祈り、教会の秘跡の生活に一生懸命することだと思います。
私はこのように思いますが、皆さんはどう思いますか? 今日の福音のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

고향. 여러분은 고향이라고 말하면 어떤 생각이 드세요?
저는 그리움? 혹은 빨리 돌아가고 싶다
라는 게 생각이 나네요.
고향에 가면 어렸을 때 놀던 곳, 다니던 길, 만났던 사람들 등이 생각이 납니다. 여러분도 그러신가요?
예수님도 낯선 동네에서 선교 생활을 하셨을 때 고향 생각이 많이 나셨나 봅니다. 그런데 막상 갔을 때 예수님은 어떤 대접을 받으셨어요?
네, 오늘 복음에서 들으신 것처럼 고향 사람들에게 배척을 받으셨습니다. 그렇다면 오늘 복음 말씀에서 우리는 무엇을 배울 수 있을 까요?
저는 하느님의 아들이라고 하는 분도 배척을 받으셨구나 라는 것을 알았습니다. 그러니까 혹시 우리 중에 누군가에게 미움을 받는 분이 계시다면 걱정하지 마시라는 것입니다. 우리 구세주 하느님의 아들 예수님도 배척을 받았으니까요.
저도 고향에 가고 싶네요. 그런데 정작 세상의 고향에 가면 지금 아는 사람도 없고 생각한 것 보다 감동이 덜할 지도 모르겠습니다.
하지만 우리 신자들에게는 영원한 마음의 고향이 있죠? 거기가 어딘가요? 네, 바로 하느님 나라이죠. 안그래요? 우리는 우리의 마음의 고향인 하느님의 나라를 그리워 하며 살고 있잖아요? 저는 우리의 영원한 마음의 고향에 가면 보고 싶었던 사람들도 다 만날 수 있을 것 같은 그런 생각이 드네요.
우리 꿈 꿔 봅시다. 어서 하느님 나라에 가고 싶은 그런 꿈이요. 하느님 나라에 가서 그동안 보고 싶었던 사람들과 만나서 영원히 헤어지지 않고 사는 그런 꿈 한번 꿔봐요. 멋지지 않아요?
우리 신자들의 꿈은 영원한 마음의 고향인 하느님 나라에 가는 것이 아니고 무엇이겠습니까?
그러니까 그 하느님 나라에 가려면 어떻게 해야 하나요? 미사에도 자주 참여하고 성체도 자주 모시고 성체 조배도 하고 하느님의 말씀에 따라 살도록 열심히 노력해야 하겠죠?
그리고 코로나를 너무 겁내지 마세요. 고령자 여러분은 백신도 맞았겠다, 마스크 잘 쓰고 사람들과 간격 2m 거리를 두고 다니면 괜찮으니까 너무 무서워 하지 않아도 됩니다.
지금 우리가 해야 할 일은 우리 모두 하느님 나라에 가야 하니까 지금부터라도 적극적으로 자선, 기도, 성사 생활에 열심히 하는 것이라고 생각합니다.
저는 이렇게 생각합니다만 여러분은 어떻게 생각하십니까? 오늘 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다. 잠시 묵상하겠습니다.

2021年6月27日日曜日 年間第13主日 お説教

新約聖書の時代には、神の子が人になって人間のそばにいました。

それで、今日の福音でお聞きになったように、病者を治し、死者を死から生き返らせました。

イエス様が死んだ12歳の少女に寝ているとおっしゃったのは、神の子がいる間は死は存在しないということです。

そのため、神の子の命令一つで死んでいた少女は、神の手を握って再び生き返ったのです。

今現在には、神の子が人としていらっしゃいません。 ただ、聖霊として私たちのそばにいらっしゃるということです。 

その聖霊である神を、我々はいつ意識できますか? 

神のみ名で祈る時です。 また、神のみ名で赦し愛する時であり、神のみ名で施しを施す時です。

コロナウイルスがどんどんひどくなっている最近、私たちがもう一人イエス·キリストになってコロナのため精神的にも経済的にも苦しんでいる孤独な人々に、自粛ばかりせず積極的に彼らのそばに近付くようにしましょう。

死んでいた少女のそばに近づいて少女を救ったイエス様のように。 

そして自分の病気の治癒を求めて積極的に群衆の中に入り、イエス様の服の裾を引っ張った下血をしていた女性のように。

積極的に神のみ名で心が弱い者、病気を患っている人々、孤独な人々に近づきましょう。 我々は、みんなもう一人のイエス·キリストですから。

신약 성경 시대에는 하느님의 아들이 사람이 되어 인간 곁에 계셨습니다.
그래서 오늘 복음 말씀에서 들으신 것처럼 병자를 낫게 하고, 죽은 이를 살리셨어요.
예수님께서 죽은 열두 살난 소녀에게 자고 있다라고 말씀하신 것은, 하느님의 아들이 있는 동안은 죽음은 존재하지 않는 다는 것을 뜻합니다.
그렇기 때문에 하느님의 아들의 명령 한 말씀으로 죽어 있던 소녀는 예수님의 손을 잡고 다시 살아 날 수 있었던 것입니다.
오늘날에는 하느님의 아들이 사람으로 계시지 않습니다. 다만, 성령으로 우리 곁에 계신다는 사실입니다.
그 성령이신 하느님을 우리는 언제 의식할 수 있습니까?
바로, 하느님의 이름으로 기도할 때입니다. 또 하느님의 이름으로 용서하고 사랑할 때이고, 하느님의 이름으로 자선을 베풀 때 입니다.
코로나 바이러스가 점점 심해지고 있는 요즘, 우리가 또 한 명의 예수 그리스도가 되어 코로나 때문에 정신적으로나 경제적으로나 힘들어 하고 있는, 외로워 하고 있는 이들에게 자숙만 하지 말고 적극적으로 그들 곁에 다가가도록 합시다.
죽어 있던 소녀 곁에 다가 가 소녀를 살린 예수님처럼.
그리고 자기 병의 치유를 원해서 적극적으로 군중 안으로 들어가 예수님 옷자락을 잡아 당긴 하혈하던 여자처럼.

적극적으로 하느님의 이름으로 약한 이들, 아픈 이들, 외로운 이들에게 다가갑시다. 우리는 모두 또 한 명의 예수 그리스도이니까요.

 

 

 

 

 

2021年6月20日日曜日 年間第12主日 お説教

今日の福音のみことばで、弟子たちは湖を渡る途中、激しい突風に遭い、非常に不安がっていました。 それで、助けてくれとお休みになっていたイエス様を揺り起こしました。
弟子たちはイエス様がそばにいたにもかかわらず、イエス様を信頼できず不安に思っていたのです。
これに対しイエス様は突風を静めた後、弟子たちに「怖がらないで。不安に思うな。 私があなたがたと一緒にいるということを信じなさい」という意味でおっしゃいました。
弟子たちの姿を見れば見るほど私自分の姿がたくさん思い出します。
日本に派遣される前、そして日本に派遣されてきた時、そして教会を移動しながら新しい人々に会ったたびに、常に不安に思っていた私の姿が思い出します。
そして今でさえも信者たちに会う度に不安がっている私自身を発見したりします。
人々に攻撃されるかと思って。
しかし、そのたびにイエス様は私に「不安を思うな」と私を安心させてくださいました。 今も私の心の中で、そして私の周りの知人たちを通して私を安心させてくれるイエス様を発見したりしています。
今日の第1朗読のみことばが本当に心に響きました。
神が嵐に命令しました。「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。 高ぶる波をここでとどめよ」と。 神様は人の住むところまでは波を許さないという意味です。 これは波の危険から私たちを守ってくださる神様ということです。
特に、我々のカトリック教会の信者たちは、他のプロテスタント教会の信者たちよりも、よっぽど多くの祝福を受けました。 それは、すなわちご聖体であるイエス·キリストの御体を丸ごと私の体の中に迎えるからです。
したがって、我々のカトリック教会の信者たちは、ご聖体を迎える度に新たな人になるのです。 その理由は、復活されたイエス·キリストを私の体の中に迎えるからです。

だから皆さん、これからでも不安に思わないでください。 なぜなら、聖体であるイエス様が私の中に一緒にいらっしゃるからです。 アーメン。

오늘 복음 말씀에서 제자들은 호수를 건너던 중, 거센 돌풍을 만나 매우 불안해 하였습니다. 그래서 막 살려 달라고 주무시고 계신 예수님을 흔들어 깨웠습니다.
제자들은 예수님이 옆에 함께 있었음에도 불구하고 예수님을 신뢰하지 못하고 불안해 하였던 것입니다.
이에 예수님께서는 돌풍을 잠재우시고 난 후 제자들에게 "두려워 하지 마라. 불안해 하지 마라. 내가 너희와 함께 있다는 것을 믿어라" 라는 뜻으로 말씀하셨습니다.
제자들의 모습을 보면 볼수록 저 자신의 모습이 많이 떠오릅니다.
일본으로 파견되어 오기 전에, 그리고 일본으로 파견되어 왔을때, 그리고 본당을 옮겨 가며 새로운 사람들을 만났을 때마다 늘 불안해 했던 제 모습이 떠오릅니다. 그리고 지금 조차도 신자들을 만날 때 마다 불안해 하고 있는 저 자신을 발견하곤 합니다.
사람들에게 공격 받을 까봐.
그러나 그 때 마다 예수님께서는 제게 불안해 하지 마라라며 저를 안심시켜 주셨습니다. 지금도 제 마음 안에서 , 그리고 제 주변의 지인들을 통해서 저를 안심시켜 주시는 예수님을 발견하곤 합니다.
오늘 제1독서 말씀이 참 인상적으로 다가왔습니다.
주님께서 폭풍에게 명령하셨어요. "여기까지는 와도 되지만 그 이상은 안된다. 너의 도도한 파도는 여기에서 멈춰야 한다"라고. 주님께서는 사람이 사는 곳까지는 파도를 허락하지 않으신다는 뜻입니다. 이는  파도의 위험으로부터 우리를 지켜 주시는 하느님이시라는 사실입니다.

특히 우리 가톨릭 교회 신자들은 다른 개신교 신자들보다도 훨씬 축복 받았습니다. 그것은 다름아닌 성체이신 예수 그리스도의 몸을 통째로 내 몸 안에 모시기 때문입니다. 그러므로 우리 가톨릭 교회 신자들은 성체를 모실 때 마다 새 사람이 되는 것입니다. 그 이유는 부활하신 예수 그리스도를 내 몸 안에 모시기 때문입니다. 그러므로 여러분, 이제부터라도 불안해 하지 맙시다. 왜냐하면 성체이신 예수님께서 내 안에 함께 계시기 때문입니다. 아멘.

2021年6月14日月曜日 年間第11月曜日のお説教

今日の福音のみことばを一言で表現すると、次の通りです。
「イエスの弟子らしい生き方」。
しかし、人間的に見ると実践しにくいです。
何よりも自分のプライドに傷つけるからです。
そして、このように生きなければ、「私はなぜカトリック信者になったのか」という恥ずかしさもあります。
カトリック教会信者でなければ、「自分のやりたい通りにやりながら暮らせばいいのに…」。 むしろ今日このみことばのために心がもっと辛いです。
皆さんは、今日この福音のみことばを聞いてどのような思いをしましたか?
私と同じような気がしましたか。 それともこのくらいは十分にできると思いましたか?
ところがですね。 イエス様がおっしゃったとおりに実践しようと思ったらたゆまず繰り返して練習しなければならないと思います。
今日の第一朗読で使徒たちが福音を伝えた時、何の試練もなかったわけではありませんでしたよね? 捕まって殴られたり、パンがなくて飢えたり、毎日が不安な生活そのものでした。 そんな生活を通して使徒たちもイエス様のみことばにだんだん慣れていったのです。
最後に一言だけ申し上げます。 福音のみことばとは、簡単に習得きるものではありません。 日常生活の中で毎日たゆまず祈りと善行を行ったらついに自然に体から出てくるものだと思いますが、皆さんはどう思いますか?
ちなみに最近のようにコロナのために大変な時期を、逆に考えれば、我々がイエスのみことばを実践できる良いチャンスだと思います。
例えば私たちの周りに誰かがコロナに感染されたら、皆さんならどうしますか? コロナに感染されたその人は、今もひょっとして自分が迷惑かけたと思って、毎日罪人のように苦しんでいるかもしれません。このような時であればあるほど、キリスト者らしい魅力を示さなければならないと思います。 その人に近づいてきて「絶対にあなたは悪かったのではないから早く回復して、回復したらもう一度私たちと一緒に交わりを分かち合いましょう」と言ったらその人はどう思いますか。
もしもっといい方法があれば教えてください。 そしてキリスト者らしく、兄弟姉妹たちにこのコロナ時代の真の慰めをあげる者になってみませんか?

오늘 복음 말씀을 한 마디로 표현하자면, 다음과 같습니다.

"예수님의 제자다운 생활 방식"

하지만, 인간적으로 보면 실천하기 매우 어렵습니다.
무엇보다도 자존심이 상하기 때문에요.
그리고 이렇게 살다 보면 '내가 왜 천주교 신자가 되었을까 ' 하는 자괴감이 들기도 합니다.

천주교 신자가 아니라면 나 하고 싶은 대로 하면서 살면 될텐데. 오히려 오늘 이 말씀 때문에 마음이 더 괴롭습니다.

여러분은 오늘 이 복음 말씀을 듣고 어떤 생각이 드셨습니까?
저와 비슷한 생각이 드셨나요? 아니면 이 정도는 충분히 할 수 있다는 생각이 드셨나요?

그런데 말입니다. 예수님이 말씀하신 대로 실천하려면 꾸준히 반복적으로 연습하지 않으면 안된다고 생각합니다.

오늘 제1독서에서 사도들이 복음을 전했을 때 아무 시련이 없었던 게 아니었죠? 잡혀가 매 맞기도 했고, 빵이 없어서 굶기도 했고, 하루하루가 불안한 생활 그 자체였습니다. 그런 생활을 통해 사도들도 예수님의 말씀에 차츰 익숙해져갔던 것입니다.

마지막으로 한 마디만 말씀드리겠습니다. 복음 말씀은요, 간단하게 터득되는 게 아닌 것입니다. 일상 생활 안에서 매일 꾸준하게 기도와 선행을 실천할 때 자연스럽게 몸에서부터 나오는 것이라고 생각합니다만, 여러분은 어떻게 생각하십니까?

그리고 덧붙여 말씀 드리면 요즘같이 코로나 때문에 힘든 시기가 거꾸로 생각하면 우리가 예수님의 말씀을 가장 잘 실천할 수 있는 좋은 기회라고 생각합니다.

예를 들어 우리 주변에 누군가가 코로나에 감염되었다면 여러분이라면 어떻게 하시겠습니까? 그 사람은 지금도 혹시나 자기가 민폐 끼쳤다고 생각하여 매일 죄인처럼 괴로워 하고 있을 지도 모릅니다. 이럴 때일수록 그리스도인 다운 매력을 보여야 한다고 생각합니다. 그 사람에게 다가가 "절대로 당신의 잘못이 아니니 얼른 회복하시고, 회복하시면 다시 친교를 우리와 함께 나누워요"라고 하면 그 사람의 기분은 어떠하겠습니까?

혹시 더 좋은 방법이 있으면 말씀해 주세요. 그리고 그리스도인 답게 형제 자매들에게 코로나 시대의 진정한 위로자가 되어 보지 않겠습니까?

2021年6月13日日曜日 年間第11主日のお説教

皆さん、我々の主イエス·キリストは、神の国をからし種としてたとえましたが、今現在には例え話で説明しなくてもいいです。 その理由は、神の国そのものはイエス·キリストであるからです。

イエス·キリストが最初に人として来られた時は、中東地域の一番小さなイスラエルという国にいらっしゃって、他の国、他の地域に住んだ人々はイエス様が誰なのか知りませんでした。

ところで、2000年が過ぎた今現在を見てください。 カトリック教会を含め、プロテスタント信者まで合わせると、世界中の人々がイエス様の弟子になったか、あるいは信者じゃないけとイエス様のみ名くらいは誰でも知っていますね。

これだけを見ても、今日の福音でおっしゃったこの神の国を、つまり、イエス·キリストをあえてこれからは例え話で説明しなくても、はっきり分かるようになりました。 イエス·キリストの今日のこのみことばが確実に叶ったのです。 そして、その完成は、後日訪れるイエス様の再臨で成し遂げらるはずです。

我々のキリストの信者たちは、このようなイエス様の再臨を信じて待っている人たちではないでしょうか?

イエス·キリストは自分のおっしゃったことを必ず成し遂げられる方ということを信じて疑わないでください。

そして、第二朗読のみことばでお聞きになったように、いつか私たちは神の国に入場する前に必ずキリストの裁きの前に立つようになるでしょう。 それで、それぞれ善で悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないはずです。 それがまさにすなわち、私審判ではなく何でしょうか?

 

ですから、この体が生きている時、主の教えを一生懸命実践しながら生きなければなりません。 皆さん、ファイトです。 主の教え、つまり、主イエス·キリストの福音書と使徒たちの手紙だけでも一生懸命に読んで勉強して、主の教えが私の体に慣れるようにしなければなりませんか? そうじゃないですか? 皆さん?主を喜ばせるべきじゃないですか?

여러분, 우리 주 예수 그리스도께서 하느님 나라를 겨자씨로 비유하셨는데, 오늘날에는 비유로 설명 안해도 됩니다. 그 이유는 하느님 나라 자체는 바로 예수 그리스도이시기 때문입니다. 

 

예수 그리스도께서 처음에 사람으로 오셨을 때에는 중동 지역의 가장 작은 이스라엘이라는 나라에 오셔서 다른 나라, 다른 지역에 살았던 사람들은 예수님이 누구신지 몰랐습니다. 

 

그런데, 2000년이 지난 오늘날을 보십시오. 가톨릭 교회를 포함하여 개신교 신자들 까지 합하면 거의 전 세계 사람들이 예수님의 제자가 되었거나, 혹은 신자가 아니더라도 예수님의 이름 정도는 누구나 알고 있습니다. 

 

이것만 보더라도 오늘 말씀하신 이 하느님 나라를, 즉, 예수 그리스도를 굳이 이제는 비유로 설명하지 않더라도 확실히 알 수 있게 되었습니다. 예수 그리스도의 오늘의 이 말씀이 확실히 이루어졌으니까요. 그리고 그 완성은 훗날 오게 될 예수님의 재림으로 이루어질테니까요. 

 

우리 그리스도 신자들은 바로 이러한 예수님의 재림을 믿고 기다리는 사람들이 아닙니까? 

예수 그리스도께서는 자신이 말씀하신 것을 반드시 이루어 내시는 분이시라는 것을 믿어 의심치 마시길 바랍니다. 

 

그리고 제2독서 말씀에서 들으신 것처럼, 언젠가 우리 모두는 하느님 나라에 입장하기 전에 반드시 그리스도의 심판대 앞에 서게 될 것입니다. 그래서 저마다 좋은 것이든 나쁜 것이든 이 몸으로 한 일에 따라 갚음을 받게 될 것입니다. 그게 바로 다름 아닌 사심판이 아니고 무엇이겠습니까? 

 

그러므로 이 육체가 살아 있을 때 주님의 가르침을 열심히 실천하며 살아야 하겠습니다. 여러분, 화이팅입니다. 주님의 가르침, 즉, 복음서와 사도 들의 편지만이라도 열심히 읽고 공부해서 주님의 가르침이 내 몸에 익숙해지도록 해야 하지 않겠습니까? 그렇지 않습니까? 여러분? 주님을 기쁘게 해 드려야 하지 않겠습니까?

2021年6月11日 金曜日 イエスのみ心の祝日(祭)のお説教

今日はイエスのみ心の大祝日です。
一つだけ申し上げます。
カトリック教会の長いミサの伝統の中で、司祭が第二奉献文の部分で聖体を信者たちに見せながら、心の中でこのような祈りを捧げます。 「私の主よ、私の神よ」。
そして続いて御血を信者たちに見せ、心の中で「主イエスのみ心よ、私の心をあなたの心と同じようにしてください」。
私はこの祈りを司祭叙階後ずっと忘れずに捧げています。 私の心がイエス様の心と同じようになることができるように。
皆さんも今日のイエスみ心の大祝日から私のように聖体と御血を司祭が持ち上げるたびにこのような祈りを心の中で祈ってほしいです。
「私の主よ、私の神よ」。
「主イエスのみ心よ、私の心をあなたの心と同じようにしてください」。
そして今日は司祭たちに聖なることができるように全世界の信者たらが司祭たちのために祈る日です。 つまり、司祭たちのお誕生日です。全世界の司祭たちがイエス様の心に似ることができるようにお祈りをお願い致します。 ありがとうございました。アーメン。

오늘은 예수 성심 대축일입니다.

한 마디만 말씀드리겠습니다.

가톨릭 교회의 오랜 미사 전통 중에 사제가 감사기도 부분에서 성체를 신자들에게 보여주며 마음 속으로 이런 기도를 바칩니다. "내 주시요, 내 천주 이시요."
그리고 이어서 성혈을 신자들에게 보여주며 마음속으로 "지극히 거룩하신 예수 성심이여, 내 마음을 네 마음과 같게 하소서."

저는 이 기도를 사제 서품 후 줄곧 잊지 않고 바쳐 오고 있습니다. 내 마음이 예수님의 마음과 같아 질 수 있도록.

여러분도 오늘 예수 성심 대축일부터 저와 같이 성체와 성혈을 사제가 들어 올릴 때마다 이런 기도를 바치기를 희망합니다.

"내 주시요, 내 천주 이시요."

"지극히 거룩하신 예수 성심이여, 내 마음을 네 마음과 같게 하소서."

그리고 오늘은 사제 성화의 날입니다. 즉, 사제들의 생일입니다. 사제들이 예수님의 마음을 닮을 수 있도록 기도 부탁드립니다. 감사합니다. 아멘.

 

 

 

 

 

2021年6月6日 日曜日 キリストの聖体と御血の大祝日の説教

今日はキリストの聖体と御血の大祝日です。
単刀直入に一つだけ申し上げます。
我々の信仰生活の中心は聖体秘跡です。つまり、ミサということです。
最近のようにミサに自由に参加できない時、聖体訪問でもしてください。聖体が中心でないと、信仰生活の意味がないからです。大勢で集まることを禁止しましたが、決して一人で聖堂に来て聖体を訪ねることは禁止していません。今月はまたイエスのみ心の月です。ミサに参加できないことを聖体訪問を通して慰めを受けてください。最後に、人々が聖堂に来て簡単に聖体を訪問できるように、聖堂の門を24時間開けておきましょう。
以上です。

오늘은 그리스도의 성체와 성혈 대축일입니다. 단도직입적으로 한 가지만 말씀드리겠습니다.
우리의 신앙 생활의 중심은 성체성사 입니다. 즉, 미사라는 것입니다. 요즘같이 미사에 마음껏 참여하지 못할 때 성체 조배라도 하십시오. 성체가 중심이 되지 못하면 신앙 생활의 의미가 없기 때문입니다.
여럿이 모이는 것을 금지했지, 결코 혼자 성당에 와서 성체를 방문하는 것까지 금지하지는 않았습니다. 이번 달은 또 예수 성심 성월입니다. 미사에 참여 못하는 것을 성체 조배를 통해 위로를 받으시길 바랍니다.
마지막으로 사람들이 쉽게 성당에 와서 조배할 수 있도록 성당 문을 24시간 활짝 열어 둡시다.
이상입니다.

2021年4月25日 復活節第4主日 主日ミサ  司式 勝谷 太治 司教

 

 

 

 

 

2021年4月18日 復活節第3主日 主日ミサ パク ゼソク 神父 お説教

復活節第3週間月曜日のお説教  2021年4月19日  (パク 神父様)

復活節第3木曜日の福音と説教  2021年4月22日

復活節第3金曜日の福音と説教    2021年4月23日

2021年4月26日 月曜日  復活節第4月曜日の福音と説教

2021年4月28日 復活節第4水曜日 福音とお説教

神の子、イエス様がこの世にいらっしゃった目的をはっきりとおっしゃいました。
それはすなわち、この世を裁くために来たのではなく、救うためにいらっしゃったということです。
何からですか? 罪と死からです。
だから、今現在のカトリック教会の信者たちは、このカトリック教会の要理を絶対に忘れてはいけません。 私たちがこの世に生まれた目的を絶対に忘れてはいけません。 それは何ですか?
私が教えますので絶対に忘れないでください。私に続いて言ってみてください。
「どうして人間はこの世に生まれましたか」。その答えは「人は神を知り、あの方に仕え、自分の魂を救うためにこの世に生まれました」。
それでは自分の魂を救うためには何をすればいいですか。 神の子がおっしゃった掟を実践しなければなりません。 その神様の子がおっしゃった掟は何ですか. それはまさに愛し合うことです。 しかし、ご注意ください。
神の子は裁かないけど、後日この世の終わりの日にお互いに愛し合いなさいとおっしゃったその掟通り、私たちは裁きを受けるはずです。
つまり、私たちがこの世に生きている間、どれほどたくさん愛し合い、赦し合って生きてきたのか、そしてどれほど私が持っているすべてのものを隣人のために寄付して生きてきたのか、奉献して生きてきたのか、私たちの行い通りに裁きを受けるのです。 これは今日の福音で神の子、イエス様がおっしゃったことですから、信じてもいいですよ。

今日の福音のみことばの核心メッセージでした。しばらく黙想しましょう。

2021年4月30日 復活節第4金曜日 福音とお説教

今日の福音のみことばを皆さんはどうお聞きになりましたか? 私はすごく希望のある声に聞こえました。 イエス様が天国には私たちが住む所がとても多いとおっしゃいました。今日の福音で見せられたイエス様の姿は天国を直接広報したイエス様です。
いやあ、神の国がどれだけ広くて大きいのか、皆さん早く行きたくないですか? 私は早く行ってみたいです。実際に死んで再び生き返った人々の証言によると、天国を見たら二度とこの世に戻りたくないそうです。
確かに、私も交通事故の時、しばらく死ということを経験しましたが、人が死んだら苦しみということが消えるという事実です。 私は幸せそうに笑っている私の顔を見ました。 これが私が経験した『死』ということです。
いくら考えてみても、神の国はとても幸せな所であることは間違いありません。 そうでなくては私が瞬間の死を経験した時、にっこり笑っていたのでしょうか。
そして、使徒時代から現在まで天国を広報してきた事実だけでも、すでに天国はどうだということが確実になりました。 そこは本当に幸せな所だという事実を。 その幸せな神の国に入ることができる唯一の方法はまさに今日の福音のみことばでイエス様が教えてくださった通りです。
まさにイエス様のみことばを信じてイエス様が教えてくださった通りに実践することです。
皆さん、神の国に入って住みたいですか? それなら道であり真理であり命であるイエス様の教え通り、お互いに愛して生きてください。
イエス様の教えを信じて実践して生きることが、天国の門の鍵を開ける鍵だということです。
今日の福音のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

2021年5月2日 復活節第5主日 福音とお説教

今日の福音のみことばと、特に第2朗読のみことばの核心メッセージを単刀直入に申し上げますと、まさにこれです。
「愛の実を結びなさい」。
「あなたの兄弟と姉妹を愛していることを行動で証明しなさい」「あなたの兄弟と姉妹を赦していることを行動で証明しなさい」
ということです。

つまり、
「言葉だけで愛するな」ということです。
「言葉だけで赦すな」という意味です。
心からあなたの兄弟、姉妹を受け入れなさいという意味です。
例えば、

今日第1朗読でサウロ、つまりパウロは悔い改めましたが、信者たちはパウロの悔い改めを信じられませんでした。 当たり前なことが、昨日まではパウロはキリスト教の信者たちを迫害した人物だったからです。

しかし、バルナバがパウロを信じてくれました。 信じてくれたし、パウロの代わりに彼を弁護してくれました。 それで、バルナバのおかげでパウロは他の信者たちの信頼を得ることができたのです。

今日の朗読と福音のみことばが私たちに与えるメッセージは、愛するということはすなわち、相手を信じてくれるものではないかと思います。 ただ、何の条件もなしに相手を信じてあげ、また彼の代わりに弁護してくれれば、私たちは想像すらできないほど、多くの愛の実を結ぶことができるという意味ではないかと思いますが…。

バルナバがパウロをただ無条件で信じてくれたから、パウロは力を得てイエス·キリストの福音を他の民族の人々に伝えることができたのではないかと思います。

皆さん、ただ何の条件もつけずに相手を信じてあげれば、その結果は私たちが想像できないほどたくさんの実を結ぶことができます。
だからキリスト教信者同士は、お互いを無条件で信じてあげなければなりません。

今日の第1朗読をご覧ください。 バルナバがパウロを何の条件もつけずに信じてくれたから、パウロは力を得てイエス·キリストの福音を力強く伝えたではないですか? そして教会が多くの成長をしたのではないですか?

今日のみことばが伝えようと思うメッセージはすなわち、愛は相手を無条件で信じでくれる信頼から始まるということです。 そうすれば、その結果は私たちが想像すらできないほど多くの実を結ぶことができるはずです。
今日の朗読と福音のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

2021年5月4日火曜日 復活節第5火曜日 福音とお説教

今日の福音のみことばで、世の中が与える平和とイエス様が与える平和とは、明らかに異なります。 
世の中が与える平和とは、単純に苦しみがないものかも知れません。 しかし、イエス様がくださる平和は苦しみの後に訪れる永遠な復活の喜びです。これをどう分かりますか。 それはイエス様の受難と死そして復活で分かります。
世の中が与えるものは、実は幸せではありません。 世の中が与えるのは苦しみです。 苦しみは世の中が与えるものです。 わがイエス様がくださるものがまさに平和であり、喜びであり、そして命です。 世の人々はいや、さらにキリスト信者たちでさえ、これを逆に思っている人々が多いのです。
神様が私たちに苦しみをくださるはずがないでしょう。 苦しみははっきり言いますが、世の中が与えるものです。 その苦しみを神の子も経験され、またその死という苦しみを乗り越えて私たちに永遠の命をプレゼントしてくださった方が、まさに神の子だという事実です。
だから、今日の福音のみことばで、イエス様は私たちにはっきりおっしゃいました。 「心を騒がせるな。おびえるな」と。
 
おびえないでください。 世の中が与える一番非常に大変な苦しみを乗り越えた方が、まさに神の子イエス·キリストでございます。 あの方が私たちにこのように安心させてくださるみことばをおっしゃったのです。 このように私たちを安心させてくださるイエス様のおかげで、使徒たちは宣教中に迫害を受けても喜んで再び乗り越えることができたのです。
今日の朗読のみことばで、使徒パウロは自分に反対する人々に石を打たれて死にそうになったけど、何事もなかったのように立ち上がって、むしろ他の弟子たちを励ましてくれなかったのてすか。
「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と。
そして続けて宣教活動をしました。 使徒パウロがこのようにすることができた理由も、全部私たちを安心させてくださった神の子イエス·キリストの復活のおかげだという事実です。 もしあの方の復活でなかったら、私たちも永遠の命の国に招待されなかったでしょう。
今日の福音のみことばの核心メッセージでした。しばらく黙想しましょう。

2021年5月5日水曜日 復活節第5水曜日 福音とお説教

聖霊の恵みるいっぱいいた初代教会に初めてのもつれが起こりました。原因は、ユダヤの出身のキリスト信者たちが、他の民族出身のキリスト信者たちにモーゼの律法に基づいて割礼を受けなければ救われないそうです。

このために他の民族の人々に宣教したパウロとバルナバはとても腹が立ちました。 したがって、使徒たちはエルサレムに集まって、この問題を解決するために教会の歴史の中に、初の公会議を開催しました。

このように、聖霊の恵みがいっぱいいた初代教会にももつれが生じましたが、使徒たちはこれを賢明に解決するために一緒に集まりました。そして一緒に祈ったはずです。 使徒たちが試練が起きたたびに一緒に集まって祈ったのは、彼らに初めて聖霊がくだった初めての聖霊降臨の出来事だけを見てもよく分かります。

これは今日の福音のみことばで、イエス様が教えてくださった通りだと思います。 「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」というイエス様のみことばを思い出した使徒たちは、試練が起こったたびにこうして集まって祈りをもって問題を解決しようとしたことを十分に予想できます。

ですから私たちも、私たちの共同体に様々なもつれが起きるたびに一緒に集まって祈りましょう。 祈らなければ、私たちはいかなるもつれも解決できないからです。

教皇フランシスコ様は、コロナの終息のために、今、全世界の教会信者たちに「ロザリオの祈りのマラソン」を提案しました。 今日の5日は、アジアの中に、韓国でロザリオの祈りを捧げる日です。韓国から近い日本教会の信者たちも、教皇様の提案通りにロザリオの祈りのマラソンに一緒に参加してほしいです。 ちなみに日本教会は21日だそうです。だから、本日、午後6時にロザリオの祈りを一緒に捧げませんか? たとえ集まって祈ることはできないけど、その時間に私たち一緒に祈りましょう。 2000年前のもつれを解決するために集まった使徒たちのように


今日の朗読と福音のみことばを読んで、私はこのように思いましたが、皆さんはどう思いますか? 
今日のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

2021年5月7日金曜日 復活節第5金曜日 福音とお説教

今日の朗読と福音のみことばを結論から申し上げますと、イエス様と使徒たちは皆、一様に最小限の掟だけを教えてくれました。
例えば、「少なくともこれ一つだけでもやれ。そうすればいい」と教えてくれました。
使徒たちはユダヤの出身のキリスト信者たちが他の民族出身の信者たちに「救われるためには、みんなモーせの律法の通り割礼を受けるべきだ」と主張したことについて、教会の歴史の中に、初の公会議を開催し、このように決定しました。
つまり、モーセの律法を全部守らずに、偶像に献げられたものと血と絞め殺した動物の肉とみだらな行いを避けるようにと教えたのです。 これだけ慎めばよいと教えてくれました。
だから、使徒たちはモーセの律法について一つだけを信者たちに提示したのです。
今日の福音でも、イエス様はその多くのモーセの律法を全部話さず、ただ一つだけを教えてくださいました。
それが何か皆さん分かりますよね?
「互いに愛し合いなさい」。
イエス様は私たちがお互いを愛しさえすればすべてが大丈夫だとおっしゃったのです。
そして私たちを指して、あなたご自身の友達だと言ってくださいました。 神の子が直接私たちにですね。 友達だそうです。
イエス様がおっしゃったとおりに実践すれば友達になると教えてくださいました。 つまり、お互いに愛すれば、私たちは神の友達になるんてすって。
なまらありがたくないですか? だから私たち皆神の友達になるようにお互いに愛しましょう。

今日の朗読と福音のみことばの核心メッセージでした。 しばらく黙想しましょう。

2021年5月9日 日曜日 復活節第6主日 福音とお説教

今日の福音のみことばでは、イエス様の最後の遺言です。 弟子たちに最後におっしゃったみことばです。 いつおっしゃいましたか。 はい、捕まる前日の最後の晩さんの時おっしゃいましたね。 弟子たちのそばを離れる前に最後にお願いしたあのみことばです。

そのみことばが復活節第6主日の今日、福音のみことばとして私たちに宣言されました。 なぜでしょうか? なぜ二度もイエス様の遺言が宣言されたのでしょうか? それはすなわち、来週が主の昇天だからです。

イエス様が昇天される前の主日に、つまり、弟子たちのそばを再び離れる前にもう一度おっしゃったのです。

本来遺言で話す話は長く言いません。 核心だけ、そして1つだけ話すのが普通です。 人々がもっとよく覚えられるように。

昨日地主司教様の葬儀のミサがありました。地主司教様のローマ留学の時の友人だった韓国のソウル教区のチョン·ジンソク枢機卿様が、地主司教様より先に亡くなりました。

その枢機卿様が亡くなる前にいつもおっしゃった言葉があったそうです。 それが何かというと、「いつも幸せにいてください。 幸せに生きることが神様の望みです」だそうです。

ね? とても簡単ですよね? 核心だけおっしゃいましたよね? 遺言とはこういうものです。 この世に残された人々に自分の考えをより確実に理解させるためにはこのように短く核心だけを話すのが一般的ではないでしょうか?

イエス様も同じだったでしょう。 普段からイエス様ご自身が言い続けていたことを、弟子たちがよりはっきり理解できるように、あの方はたった1つの文章で要約しておっしゃったのです。 何でしたっけ? みんなで一緒に話してみましょうか? 「お

互いに愛し合いなさい」。

皆さん、神様が十字架につけられ、私たちを死ぬまで愛したように、私たちもイエス様をとても愛し、また神にそっくりな私自身と、また皆さんの横にある前に座った信者を心から受け入れ、力の限り愛するべきではないでしょうか?

私はこのように思いましたが、皆さんはどう思いますか。今日の福音のみことばの核心メッセージでした。

しばらく黙想しましょう。

もう、人になっていらっしゃった神の子が天に昇天すると、弟子たちのそばには神様がいなくなります。 それでイエス様は弟子たちのそばに永遠にいるようにするために聖霊を送ってくださることを約束しました。 その聖霊がいらっしゃったら、後日迫害が来ても立派に耐えることができるとおっしゃいました。

今日の朗読でも、同じように聖霊がリディアの心を開かれたので、使徒パウロは何の反発もなく、リディアに福音を伝えることができました。

「パウロの話を注意深く聞くように主が彼女の心を開かれた」と言わなかったですか?

同じように、今現在の私たちも今、聖霊が私たちの心を開かれたので、皆さんは今、私が話しているこの説教に耳を傾けているのです。 そうでないべさ?

だから、現代を生きる私たちのそばには、このように聖霊である神様が生きておられるということです。 特にこのミサの中で、パンとぶどう酒の中にね。 そして言葉の典礼の中に宣言されたみことばの中に生きておられるということです。

ですから、この事実を心から受け入れて信仰で信じなければなりません。

今日の朗読と福音のみことばの核心メッセージでした。しばらく黙想しましょう。

2021年5月23日 日曜日 聖霊降臨の主日 お説教

皆さんは今日、二つの聖霊降臨事件のお話を聞きました。
一つは今日の第一朗読のみことばであり、もう一つは今日の福音のみことばです。
第一朗読のみことばは私たちに親しんでいる五旬祭の日の聖霊降臨事件のお話であり、福音のみことばは神の子、イエス·キリストが直接弟子たちにくださった聖霊降臨事件です.
五旬祭の日の聖霊降臨事件では、恐ろしさに震えている使徒たちが聖霊を受けてすぐ、恐ろしさを振り払って外に出て人々にイエス様が真の救い主ということを知らせ、
また、救い主イエス様が死んで復活し、私たちの中で生きておられることを知らせました。
そしてイエス様が直接小さな部屋で使徒たちにくださった聖霊は、まさに罪を赦す権限でした。
本来罪を赦す権限は神のものでした。
ところでイエス様が使徒たちに与えたものです。
それで、使徒たちはイエス様から受けた罪を赦す権限を持ち、人々の罪を赦してくれました。 
そして時間が経って使徒たちは、彼らの後継者である司教たちを選び、イエス様から受けた罪を赦す権限を与え、
司教たちは自分たちの協力者である司祭たちを選び、同じように、イエス様から受けた罪を赦す権限を与えたのです。
この罪を赦す権限を与えられた司祭たちが、まさに告解を通して人々の罪を赦しているのです。
イエス様ははっきりとおっしゃいました。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。
だから、赦しの秘跡によって罪を赦された人は、自分が告白した罪が消えるでしょうが、一度も赦しの秘跡を受けたことのない人は、自分が犯した罪がそのまま残るでしょう。
もし死ぬまで赦しの秘跡を受けずに死ぬ人は、神の前に進み、自分がこの世に生きていた時に犯した罪をすべて償わなければ、決して天国に入ることはできないでしょう。
どこで罪を償えばいいですか。 まさに煉獄でですね。
ですからお勧めします。皆さんの主任司祭をうるさくせがんでください。 「神父様、告解を」。積極的にお願いしてください。赦しの秘跡を願うのは決して迷惑ではありません。
自分がいつ死ぬかどうか分からないので、罪を犯したら悔い改めて、しばしば赦しの秘跡を受けなければなりません。

皆さんが明日起きると確信することができますか?
皆さんが今夜を無事に過ぎることができると思いますか。 私たちが毎日眠りから覚めることができるのは、神様が私たちに悔い改めて罪を赦される機会をくださったと思いますが。
そして、世の中の人々と過ごす時も恐れず、恥ずかしがらずに勇気を持って堂々と自分がカトリック教会の信者ということを明らかにしてください。
未信者たちの前で堂々と十字架のしるしの祈りをしながらね。
皆さんはすでに洗礼と堅信の秘跡を通して聖霊の恵みを十分受けました。ところで、何が恐ろしいですか。 しかも、このようにご聖体の秘跡を通してイエス様を丸ごと自分の中に迎えることになるでしょうが。

今日の福音のみことばの核心メッセージでした。

여러분은 오늘 두 개의 성령 강림을 들었습니다
하나는 오늘 제1독서 말씀이고, 나머지 하나는 오늘 복음 말씀이죠
독서 말씀은 우리에게 익숙한 오순절 다락방 성령 강림 이야기이고, 복음 말씀은 성자 예수 그리스도께서 직접 제자들에게 주신 성령 강림 사건입니다
오순절 다락방 성령강림 사건에서는, 두려움에 떨고 있는 사도들이 성령을 받자마자, 두려움을 떨쳐 버리고 밖으로 나가 사람들에게 예수님이 참 구세주이시라는 것을 알리고
또 구세주 예수님이 죽으셨다가 부활하시어 우리 가운데 살아 계시다는 것을 알렸습니다
그리고 예수님이 직접 다락방에서 사도들에게 주신 성령은 다름아닌 죄를 용서하는 권한이었습니다
본래 죄를 용서하는 권한은 하느님의 것이었습니다
그런데 예수님께서 사도들에게 주신 것입니다
그래서 사도들은 예수님에게 받은 죄를 용서하는 권한을 가지고사람들의 죄를 용서해 주었습니다
그리고 시간이 흘러 사도들은 자기들의 후계자인 주교들을 뽑아그들에게 예수님에게 받은 죄를 용서하는 권한을 주었고,
주교들은 자기들의 협력자인 사제들을 뽑아 마찬가지로 예수님에게 받은 죄를 용서하는 권한을 준 것입니다.
이 죄를 용서하는 권한을 받은 사제들이 바로 고해성사를 통해서사람들의 죄를 용서해 주고 있는 것입니다
예수님께서는 분명히 말씀하셨습니다
”너희가 누구의 죄든지 용서해 주면 그가 용서를 받을 것이고,그대로 두면 그대로 남아 있을 것이다.”라고.
그러므로 고해성사를 통해 죄를 용서받은 사람은 자기가 고백한그 죄가 사라지겠지만, 한번도 고해성사를 받지 않은 사람은 자기가 지은 죄가 그대로 남아 있게 될 것입니다.
만일 죽는 날까지 고해성사를 받지 않고 죽는 사람은 하느님 앞에나아가 자기가 세상에 살았을 때 지었던 죄를 다 보상하지 않고서는 결코 천국에 들어가지 못할 것입니다
어디에서 보상해야 하죠? 바로 연옥에서요.
그러므로 권고합니다 고해성사를 자주 받으십시오
여러분의 주임 사제를 귀찮게 졸라 대십시오.
신부님 고해성사를 달라고. 적극적으로 청하십시오
고해성사를 달라고 청하는 것은 결코 민폐끼치는 일이 아닙니다
내가 언제 죽을 지 모르기 때문에 죄를 지으면 회개하고 자주자주고해성사를 받아야 하는 것입니다
여러분이 내일 잠자리에서 일어난다고 확신할 수 있습니까?
여러분이 오늘 밤을 무사히 넘길 수 있다고 생각하십니까?
우리가 매일 잠자리에서 깨어날 수 있는 것은 하느님께서 우리에게 회개하고 죄를 용서받을 기회를 주신 것이라고 생각합니다만.
그리고 세상 사람들과 지낼 때에도 두려워하지 말고 부끄러워하지말고 용기를 갖고 당당하게 내가 천주교 신자라는 것을 드러내십시오.
미신자들 앞에서 당당하게 십자성호를 그으면서.
러분은 이미 세례와 견진성사를 통해 성령의 은사를 충분히 받았습니다
그런데 무엇이 두려우십니까? 게다가 이렇게 성체성사를 통해 예수님을 통째로 내 안에 모시게 될텐데 말이죠.

오늘 복음 말씀의 핵심 메시지였습니다.

2021年5月26日 年間第8水曜日 お説教

今日の福音のみことばではヤコブとヨハネがイエス様に自分たちの望み通りにしてほしいと言いました。
 
呆れますね。 しかし、私たちもこの二人の使徒たちと同じではないでしょうか? 私たちもイエス様のことを自販機として扱っているのではないかと反省する必要があります。
 
この二人の使徒は、つまり、権力と名誉を求めました。 しかし、イエス様は仕えと犠牲をくださいました。
 
使徒たちが望むものを与えれば永遠に地獄に行くに違いないのに、イエス様がバカではないのに彼らが望む通りにくださいますか?
 
これはまるで子どもが、自分はキャンディが好きだと言って毎日キャンディだけ要求すると、ある母親がバカではないのに子どもが望む通りに許可しますか?
 
私たちに対する神の心も同じだと私は思いますが、皆さんはどう思いますか?
 
私たちが天国に入って永遠に幸せに生きる唯一の道は、他でもなく仕えることと犠牲だということです。 そうじゃないですか?
 
これが今日の福音のみことばの核心メッセージだと思いますが、皆さんはいかがでしょうか?

 

오늘 복음 말씀에서는 제배대오의 아들 야고보와 요한이 예수님에게 청하는 대로 해주기를 원한다고 말했습니다. 
 
어이가 없습니다. 하지만 우리도 이 두 사도와 마찬가지가 아닐까요? 우리도 예수님을 마치 자판기로 취급하고 있지 않나 반성해 볼 필요가 있습니다. 
 
이 두 사도는 한마디로 말해서 권력과 명예를 청했습니다. 그러나 예수님께서는 섬김과 희생을 주셨습니다. 
 
사도들이 원하는 대로 주었다가는 영원히 지옥에 갈게 뻔한데 미쳤다고 그들이 원하는 대로 주시겠습니까? 
 
이는 마치 어린이가 자기는 사탕이 좋다며 매일 사탕만 달라고 하면 어느 엄마가 미쳤다고 아이가 바라는 대로 허락하겠습니까? 
 
우리에 대한 하느님의 마음도 마찬가지라고 저는 생각합니다만, 여러분은 어떻게 생각하십니까? 
 
우리가 천국에 들어가서 영원히 행복하게 살 수 있는 유일한 길은 다름아닌 섬김과 희생이라는 것입니다. 그렇지 않습니까?
 
이것이 오늘 복음 말씀의 핵심 메시지라고 생각합니다만 여러분은 어떻게 생각하십니까? 

2021年5月30日 日曜日 三位一体の主日 お説教

三位一体である神の基本精神は何でしょうか?

神はお一人様ですが、あの方の役割によって父である神、神の子イエス·キリスト、聖霊に分けて説明すると、
まず、父である神様は人が暮らしやすい世の中を作ってくださり、そこで何の不便もなく幸せに暮らせるように全てを用意してくださった、特に命を含めて全てをただですべて用意してくださった方が父である神様です。
そして、神の子イエス様はどのような役割をされましたか? 父である神がご自分で、人が暮らしやすい世の中を作ってくださいましたが、人は神のようになりたいという気持ちからつい罪を犯して、神が作ってくださった世の中から追い出されました。 そして永遠に死ぬ危機に瀕するようになったのです。
その時、闇の中に一筋の光のように現われて私たちを永遠な死(消滅)から救ってくださった方は誰ですか、まさに 神の子イエス様でございます。
そして、最後に聖霊は、私たちが神の国に行く時まで悪魔の危険から守ってくださり、私たちと一緒にずっといてくださり、私たちを安心させてくださり、面倒を見てくださる方だと思いますが、皆さんはどう思いますか?
この三人の方々、いやお一人様である神様の基本精神が、まさに人間が永遠に幸せに生きることができるようにすべてを用意してくださり、救ってくださり、面倒を見てくださる、つまり、友達のために命さえ捧げた愛の精神ではないかと思いますが、いかがですか?
そして最後に、三位一体である神様は助け合い、愛し合う関係なので、私たちも三位一体である神様のように助け合い、お互いに大切にし、お互いに愛するようにしなければなりませんか?

私はこのように思いますが、皆さんはいかがでしょうか。

今日の説教でした。

삼위일체이신 하느님의 기본 정신은 무엇일까요?
하느님은 한 분이시지만 그분의 역할에 따라 성부 하느님, 성자 예수님, 성령 이렇게 셋으로 나누어서 설명하자면,
첫째 성부 하느님께서는 사람이 살기 좋은 세상을 만들어 주시고 그곳에서 아무 불편없이 행복하게 살 수 있도록 모든것을 마련해 주셨다, 특히 생명을 포함해서 모든 것을 공짜로 다 마련해 주신 분이 성부 하느님이세요.
그리고 성자 예수님은 어떤 역할을 하셨어요? 성부 하느님이 친히 사람이 살기 좋은 세상을 만들어 주셨지만 사람은 하느님처럼 되고 싶은 마음에 그만 죄를 짓고 하느님이 만들어 주신 세상에서 쫓겨났어요. 그리고 영원히 죽을 위기에 처해지게 되었죠.
그 때 어둠 속에 한 줄기 빛처럼 나타나셔서 우리를 영원한 죽음(소멸)에서 구원해 주신 분이 누구시냐? 바로 성자 예수님 이시죠.
그리고 마지막으로 성령은요, 우리 사람이 하느님 나라에 갈 때 까지 악마의 위험으로부터 지켜 주시고 우리와 함께 쭉 있어 주시면서 우리를 안심시켜 주시고 돌보아 주시는 분이라고 생각하는데 여러분은 어떻게 생각하나요?
이 세분 아니 한 분이신 하느님의 기본 정신이 바로 인간이 영원하게 행복하게 살아갈 수 있도록 모든 것을 마련해 주시고 구원해 주시고 돌보아 주시는
, 즉, 친구를 위해 목숨조차 바친 사랑의 정신이 아닌가 하고 생각하는데 어떻게 생각하세요?
그리고 마지막으로 삼위일체이신 하느님은 서로 도와 주며 서로 아껴주고 사랑해 주는 관계이므로 우리도 삼위일체이신 하느님처럼 서로 도와 주며 서로 아껴 주고 서로 사랑하도록 해야 하지 않겠습니까?

저는 이렇게 생각합니다만 여러분은 어떻게 생각하십니까?

오늘의 강론이었습니다.

2021年5月30日 日曜日 三位一体の主日 お説教

三位一体である神の基本精神は何でしょうか?

神はお一人様ですが、あの方の役割によって父である神、神の子イエス·キリスト、聖霊に分けて説明すると、
まず、父である神様は人が暮らしやすい世の中を作ってくださり、そこで何の不便もなく幸せに暮らせるように全てを用意してくださった、特に命を含めて全てをただですべて用意してくださった方が父である神様です。
そして、神の子イエス様はどのような役割をされましたか? 父である神がご自分で、人が暮らしやすい世の中を作ってくださいましたが、人は神のようになりたいという気持ちからつい罪を犯して、神が作ってくださった世の中から追い出されました。 そして永遠に死ぬ危機に瀕するようになったのです。
その時、闇の中に一筋の光のように現われて私たちを永遠な死(消滅)から救ってくださった方は誰ですか、まさに 神の子イエス様でございます。
そして、最後に聖霊は、私たちが神の国に行く時まで悪魔の危険から守ってくださり、私たちと一緒にずっといてくださり、私たちを安心させてくださり、面倒を見てくださる方だと思いますが、皆さんはどう思いますか?
この三人の方々、いやお一人様である神様の基本精神が、まさに人間が永遠に幸せに生きることができるようにすべてを用意してくださり、救ってくださり、面倒を見てくださる、つまり、友達のために命さえ捧げた愛の精神ではないかと思いますが、いかがですか?
そして最後に、三位一体である神様は助け合い、愛し合う関係なので、私たちも三位一体である神様のように助け合い、お互いに大切にし、お互いに愛するようにしなければなりませんか?

私はこのように思いますが、皆さんはいかがでしょうか。

今日の説教でした。

삼위일체이신 하느님의 기본 정신은 무엇일까요?
하느님은 한 분이시지만 그분의 역할에 따라 성부 하느님, 성자 예수님, 성령 이렇게 셋으로 나누어서 설명하자면,
첫째 성부 하느님께서는 사람이 살기 좋은 세상을 만들어 주시고 그곳에서 아무 불편없이 행복하게 살 수 있도록 모든것을 마련해 주셨다, 특히 생명을 포함해서 모든 것을 공짜로 다 마련해 주신 분이 성부 하느님이세요.
그리고 성자 예수님은 어떤 역할을 하셨어요? 성부 하느님이 친히 사람이 살기 좋은 세상을 만들어 주셨지만 사람은 하느님처럼 되고 싶은 마음에 그만 죄를 짓고 하느님이 만들어 주신 세상에서 쫓겨났어요. 그리고 영원히 죽을 위기에 처해지게 되었죠.
그 때 어둠 속에 한 줄기 빛처럼 나타나셔서 우리를 영원한 죽음(소멸)에서 구원해 주신 분이 누구시냐? 바로 성자 예수님 이시죠.
그리고 마지막으로 성령은요, 우리 사람이 하느님 나라에 갈 때 까지 악마의 위험으로부터 지켜 주시고 우리와 함께 쭉 있어 주시면서 우리를 안심시켜 주시고 돌보아 주시는 분이라고 생각하는데 여러분은 어떻게 생각하나요?
이 세분 아니 한 분이신 하느님의 기본 정신이 바로 인간이 영원하게 행복하게 살아갈 수 있도록 모든 것을 마련해 주시고 구원해 주시고 돌보아 주시는
, 즉, 친구를 위해 목숨조차 바친 사랑의 정신이 아닌가 하고 생각하는데 어떻게 생각하세요?
그리고 마지막으로 삼위일체이신 하느님은 서로 도와 주며 서로 아껴주고 사랑해 주는 관계이므로 우리도 삼위일체이신 하느님처럼 서로 도와 주며 서로 아껴 주고 서로 사랑하도록 해야 하지 않겠습니까?

저는 이렇게 생각합니다만 여러분은 어떻게 생각하십니까?

오늘의 강론이었습니다.

 

 

 

 

小野幌教会の鐘の音

2022年1月1日神の母聖マリアの祝日 ミサ

2022年1月2日日曜日 主の公現(祭日)ミサ