ローマ教皇を神の代理人とするキリスト教の主流となった教会組織。いわゆる旧教。
ローマ教会の成立
イエスの十二使徒の一人、ペテロが創建したとされるローマ教会(聖ペテロ教会)の司教は、キリスト教信仰の中でペテロの後継者という特別の地位が与えられていた。しかしはじめは、五本山の一つにすぎず、またローマ帝国の国教となってからは、ローマ皇帝が教会に対する命令権を持っていたため、その保護を受けながら、皇帝に服さなければならなかった。正統の確立
キリスト教は313年のミラノ勅令でローマ帝国のもとで信仰が認められ、さらに392年にキリスト教は国教とされるが、その間に教義の統一の必要がでてきたため、たびたび宗教会議を開催し、325年にアタナシウスの唱える三位一体説が正統とされ、教義を確立させた。その後もいくつかの異端が現れたが、5世紀初めにはアウグスティヌスなどの教父によってキリスト教神学が深められた。アウグスティヌスは『神の国』をあらわして、教会を現世における神の国と位置づけて信仰の拠り所とし、各地に教会が建設され、聖職者が配置されていった。また5世紀頃、アイルランドにおいて修道院が生まれ、信仰の修業と聖書研究や写本の製作を通じてキリスト教文化の中心となっていった。東方教会との対立
西ローマ帝国滅亡後は、その保護者を失ったので、東ローマ皇帝を頼らざるを得なくなった。またローマも西ゴートのアラリックや、フン人のアッティラなどの掠奪を受けて教会も存亡の危機に立たされたが、ローマ司教の努力(アラリックの侵略の際はインノケンティウス1世が、アッティラの侵入の際はレオ1世がそれぞれ彼らを説得して平和を守ったと伝えられる)によって危機を脱し、ローマ司教の名声は上がった。しかし、東ローマ帝国の繁栄を背景にしたコンスタンティノープル教会とは、次第に対立の構図が出来上がっていく。コンスタンティノープルの東方教会は、ビザンツ皇帝が聖職者の叙任権を握る皇帝教皇主義を明確にし、次第にローマ教会との違いが大きくなっていった。ローマ教会の危機
次第に東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会との間で、教会の首位権を争うようになっていたが、ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後、イタリアがオドアケルの国、東ゴート王国、ランゴバルト王国というゲルマン人諸国の支配を受けた。これらのゲルマン諸国は文化面ではローマ化していったが、信仰面では異端とされるアリウス派を信仰していたため、ローマ教会は苦境に立たされた。フランク王国との結びつき
その窮地を救ったのがフランク王国であり、496年クローヴィスの改宗によってローマ教会はフランク王国との結びつきを強め、それを新たな政治的保護者とすることによって、ビザンツ帝国およびコンスタンティノープル教会と対抗することができた。その後、ローマ教会ではベネディクトゥスによる修道院運動が始まり、ローマ教皇グレゴリウス1世はベネティクト派の修道士を派遣してゲルマン人への布教を積極的に進め、西ヨーロッパの隅々まで教会組織を拡張していく。聖像崇拝問題とカールの戴冠
キリスト教両教会の対立は、726年の聖像禁止令を頂点とした聖像崇拝問題でさらに激しくなった。800年にはローマ教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ヨーロッパ世界は宗教的にも政治的にも東方世界と分離することになった。その後も長い交渉を経たが、ついに1054年にキリスト教教会は東西に分裂することとなる。中世西ヨーロッパのローマ教会
東西教会の分離と同時に、ローマ=カトリック教会は、ローマ教皇を頂点とした聖職者階層制組織(ヒエラルキア)をつくりあげ、西ヨーロッパ世界の政治・社会・文化の上で重要な存在となり、叙任権闘争を通じて世俗の皇帝権力を上回る権威を確立した。そのような権威を背景に11世紀末から十字軍運動を展開、13世紀にその全盛期を迎える。教会は中世においては一定の平和維持機能の役割も果たしていたことは、11世紀を中心に神の平和といわれる運動が展開され、「神の休戦」が呼びかけて領主間の争いを調停することも行われた。